2016年04月02日

故郷の桜、芦屋の桜。

桜前線が関東や関西を彩る週末。

このタイミングで帰郷できないので、昨年の早春に出版した写真集「芦屋桜」をめくっていたら、実家の母から携帯で撮った家の前の並木の夜桜の写真が送られてきました。このタイミング。グッときます。

この写真集について少し振り返ると、阪神淡路大震災から10年の節目に、被災者の目線で震災前後の芦屋を撮り続けた写真集「一年後の桜」を出版。そのテレビ取材が2006年にありました。内容は、その後の桜をテーマに撮り歩くものだったのですが、それをきっかけに桜樹に誘われるままに故郷の町をくまなく歩くという幸せな撮影を毎年続けることにしました。

震災から20年の節目に、芦屋の変化を見守っている桜にメッセージを託し形にしたいと思って、ご縁のあった出版社ブックエンドの藤元由紀子さんに見てもらったらその場で出版が決定。ブックデザインは吉野愛さんで、撮影者の想いをギュッと掴んでさらに魅力を発散してくださるようなエディトリアル。製版は僕の暗室ワークの全てを見抜かれる鋭い眼差しを持った日本写真印刷の中江一夫さん。そして解説文は、ずっと僕の写真を見続けてくださっている元芦屋市立美術博物館の学芸課長で甲南女子大学教授の河崎晃一さん。

昨年開催された、芦屋市立美術博物館の小企画展「光の空ー阪神淡路大震災から20年ー芦屋」に、学芸員の大槻晃実さんのご厚意で「一年後の桜」と一緒に「芦屋桜」も並べていただき、とても良い節目にしていただきました。

時々は地上に顔を出して”光の空”を眺めてきましたが、常に地下に潜るかのように、長いトンネルの中にいるような苦しく感じることも多い作家活動。しかし、自分の世界観を撮り続けなければ写真家にあらず。自分の今の気持ちを表現する喜びを維持して、これからもコツコツと続けたいと心に期する桜の日です。

写真集の帯に抜粋された僕の文章です。

目の前に佇む
桜を撮影すると、
次々と
桜たちに招かれ、
町の隅々まで
巡り続ける。

こうして
生まれ育った
町との絆を
確かめながら、
僕は
桜の風景を
撮る。

こちらはFacebook「芦屋桜」のページです。よかったら「いいね!」してくださいね。

作品は、僕のウェブサイトでダイジェストですがご覧いただけます。
「 一年後の桜」のページ
「芦屋桜」のページ

いずれもamazonで購入できます。お気に召したら、よろしくお願い致します!

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写真集「芦屋桜」より

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2016年03月25日

芦屋の春の風物詩、くぎ煮は母の味。

実家から宅急便が届いた。開封するといかなごのくぎ煮。

明石海峡で揉まれて獲れる新鮮ないかなごを阪神間や淡路島の家庭では調理してご近所に振る舞う。

須磨で生まれ育った母も、毎年この季節になるとガッツリ仕入れてくる。醤油、砂糖、生姜で煮詰めると折れた釘のようになる。子どもの頃から甘い味と香りが大好きだった。

これが春の風物だと理解したのは、たぶん、芦屋を離れて暮らしてからだったし、阪神間の家庭料理だと知ったのはつい最近のこと。年齢のせいか以前より増して郷土愛が深まったからだと思う。

何より、父が他界してから、実家で一人過ごす母への想いが、この気持ちをより強いものにしている。元気でいる母からの季節の便りだし、毎年毎年つくり続けてきた母への感謝の気持ちが深まることの幸せに他ならない。

いつまでも母のくぎ煮を食べたい。

ちょっと調べてみた。

===
いかなご
スズキ目イカナゴ科
Japanese sand lance

明石海峡周辺では、いかなごの稚魚を新子(シンコ)成魚を古背(フルセ)といい、関東では、小女子(コウナゴ)、宮城では、女郎人(メロウド)、九州方面ではカナキなど、色々な呼び名がある。
いかなごの由来は、何の魚の子か判らなかったことから、「いかなる魚の子なりや」の意味とも言われている。

明石・淡路近海では、12月から1月頃にキレイな底砂に産卵。くぎ煮に使用されるいかなごの漁の解禁は2月下旬から3月上旬。兵庫県立水産技術センターが試験引きを行い稚魚の成育などの調査結果をもとに毎年解禁日が決められる。
===
(くぎ煮.jpより)

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2016年02月14日

熊楠への旅

何年振りだろう、、、学生時代にはバイクにシュラフをくくり付けて走った真夏の国道42号線。砂浜がなくなった芦屋から想う南紀は陸続きの異郷の南国だった。世界に名を馳せながらも、後半生はその地に留まり生態系の宇宙を彷徨った熊楠。

僕は、気候変動、森林問題、生物多様性、減災防災、SDGsとテーマを拡充しながら歩んできたが、南三陸の人々との出会いが大きなキッカケとなり、ここに来て言葉や概念に捉われずに地に足の着いた日本らしい自然共生文化を伝えるにはどうしたらいいかと考えるようになってきた。

そこで改めて熊楠に思い至る。2017年に生誕150年の節目を迎える。博物学者、知の巨人としての熊楠を俯瞰することは並大抵ではないが、日本のエコロジー先駆者としての側面を追いかけることであれば、まさに本領であるCEPA(コミュニケーション、教育、普及啓発)ではないかと白浜に移住した盟友の水野雅弘さんと思い至ったのである。

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南方熊楠顕彰館の生誕150年ロゴ

そんなタイミングで、白浜会館で開催された「吉野熊野国立公園指定80周年・拡張記念式典」を水野さんがプロデュースすることになり、後半に組まれた「つなげよう支えよう森里川海プロジェクト」でパネルディスカッションのコーディネーターに声をかけてくれ2月13日に開催。

「森」「里」「川」「海」のフィールドをつなぐのを「教育」と「水」をテーマとし参集したパネルは素敵な方々だ。

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パネルディスカッションのリーフレット

奈良教育大教授の松井淳さんの「森」は、紀伊半島の三大流域、紀ノ川、熊野川、宮川の水源である大台大峰は危機的状況にある話から始まり、三重県速水林業代表の速水亨さんの「里」は、森川海へ人為的影響を与える里の管理や森は光の管理ということを哲学と科学で解き明かす話があり、川上村森と水の源流館の木村正邦さんの「川」は、源流と下流域の交流による流域俯瞰の世代を越えた活動の話。

これら、よしくま(吉野熊野)の山々に想いを馳せる話から視点を変えて、和歌山南漁協組合長の榎本さんの「海」は、森里川海のつながりは恵みを与えてくれるだけではなく、汚染や開発という負の影響を海に与えている事実に目を向ける話に展開し、大杉谷自然学校校長の大西かおりさんの「教育」は、自然と人をつなぎ、高齢者から子どもへ世代をつなぐという心に沁みる話で、最後に自然写真家の内山りゅうさんの「水」は資源であり、世界は水を求めて争いつつあるが、和歌山は水が豊かで美しいという話へと続いた。

僕には、大きな紀伊半島に流域による自然の地図が浮かび上がり、この豊かな半島の自然資本を守って使い続ける知恵が、熊楠のDNAのごとく地域から湧き上がっているように感じた。

登壇者の発言を借りると、「地域に足を運び接点をつくり(内山さん)」「自然体験をしてアタマを良くして(大西さん)」「大事に取り組み(榎本さん)」「川を通じてつながり(木村さん)」「創造力を持って見えないつながりを感じ(速水さん)」「大台大峰を守る(松井さん)」ことで紀伊半島は未来に続く。となる。

このコーディネイト体験によりグッとリアリティを帯び、夜の懇親会では真砂田辺市長、井澗白浜市長と懇談、翌2月14日に南方熊楠記念館の谷脇館長ともお会いした。

そして、エコロジスト熊楠の足跡を感じるために、水野さんと共に彼が残した継桜王子の神社林である野中の一方杉に会いに行った。明治末の神社合祀令による伐採を免れた数少ない巨樹の佇まい。

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盟友の水野雅弘さん

熊楠の想いは、このように生きた形で熊野に点在している。これを巡るための仕掛けを多くの方々と考え形にするための構想をモワモワと妄想し始めた。

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継桜王子の神社林である野中の一方杉





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2016年01月17日

阪神淡路大震災から21年

タンスの下敷きになった痛みを忘れてしまっているように感じます。

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芦屋霊園からの眺め

震災から10年後の秋に出版した、写真集「一年後の桜」の作品を抜粋して写真家のウェブサイトにアップしました。写真集に記載したエッセイも少し追記しました。この写真集の出版が、僕の心の復興の証です。お時間のある時に是非ご覧くださいね。お気に召したら写真集も買ってもらえたら嬉しいです。

この出版からも既に10年が経ちました。僕自身、タンスの下敷きになったために、被災者として思い悩むばかりで、人の役に立つことを全く考える余裕がありませんでした。

東北も5年の節目。被害の大きさが比べものになりませんが、一人ひとりの心の復興はもしかしたら近い歩みがあるのかもしれないと思って、これからも自分の体験を活かして世のため人のためになれるなら、南三陸町を始め、ご縁のできた人の元へ、足を運びたいと思っています。

今年だから言えるような気がします。311の直後、被災地に足を向けることができませんでした。それは自分の震災体験がマイナスに作用したからでした。外から来る人への恐怖心からです。ご家族が亡くなって遺体安置所に何とか運んで自宅に戻ったら、貴金属が全てなかったという信じがたい火事場泥棒の話や、僕の実家の庭を見知らぬ人がウロチョロ歩き回っているので「何をしているのですか?」と家から出て声を上げると、蜘蛛の子を散らすように走り去るという、自分の目でも考えられない光景を見て、祖父祖母を始めとする家族を守ることを第一に考えて行動していました。そんなことがほんの一部の心無い人の行動だと思えるようになるのにずいぶんと時間がかかりました。まさに非常事態だったように思います。

東北沿岸部で被災した方々が、支援者に対してどう考えるのだろうと思い悩んでしまって足を向けられない代わりに、東京でレスキュー組織の広報サポートをしたり、東北大学の「グリーン復興プロジェクト」の運営サポートをし始めました。いま、結果的に思うことは、「自分のスキルを活かして世のため人のためになる」ことであれば、支援の形は多様だし、時期は問われないし、くよくよ考えることではなかったということです。

しかし、これは僕が一人で乗り越えたのではなくて、南三陸町の佐藤太一くんとの出会いがとっても大きかった。彼との出会いは僕の中では革新でした。人から求められる喜びを教えてくれました。

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with 佐藤太一くん

そして鈴木卓也さん、小野寺邦夫さんという友も得ました。TEDxTohoku2013で同じスピーカーとして登壇した山内明美さんや吉川由美さんとのご縁から、南三陸町の多くのキーパーソンと繋いでいただいたことで「山さ、ございん」プロジェクトを立ち上げることになって、自分のスキルを活かして世のため人のためになる」ということを実体験でき、「自分の命の使い方」ということを考えるようになりました。

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with 鈴木卓也さん

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with 小野寺邦夫さん

そして他にも印象的な大切な友ができました。

小泉の阿部正人さん。彼の故郷への素直な想いに心を動かされて、巨大防潮堤の複雑な問題を、何とか自分ごととして考えられるように、東北大学のプロジェクトメンバーのエクスカーションを実施して施策アイデアを出してみました。実現できるほどの余力がなく今日に至ってしまっていますが、毎夏一緒に小泉で波乗りをして、自分の中の火を消さないよう、何か気づきを得られるように行動しています。

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with 阿部正人さん

閖上浜の大橋信彦さん。津波の前から松林で次世代に海岸林の大切さを伝えていた人生の先輩です。いま孤軍奮闘で走っているので、せめて手伝えることがないかと思って、僕がアドバイザーを務めているNPO法人湘南スタイルのメンバーで、僕のウェブサイトも制作してくれた市川靖洋、歩夫妻にお願いして、大橋さんのウェブサイト「yuriagehama.com」を制作してもらいました。これからも語り合っていきたいと思っています。

北海道の鈴木玲さん。岩手から福島までの東北沿岸の海岸植生の回復を願う熱き男です。彼の活動母体である「北の里浜 花のかけはしネットワーク(はまひるがおネット)」のロゴマークを、やはり市川夫妻にお願いして制作しました。僕が出会った中で、彼ほど「自分の命を使い切る」想いで走っている男を知りません。今は病院でメンテナス中ですが、回復すればエンジン全開で走ることでしょう。巻き込まれることを楽しみにしています。さらに突っ走れるようにパワーを注入し返してあげたいと思います。

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with 大橋信彦さん、鈴木玲さん

僕のこの体験は、災害大国日本に生きる者の宿命だと思っています。

今は、南三陸町の産業振興課長の高橋一清さんを始め多くの方とも想いを共有して、町民の視点と自治体の視点を行ったり来たりしながら、本当の意味で「世のため人のためになる」「自分の命の使い方」を模索したいと思っています。

阪神淡路大震災から21年。有難いことに、僕はまだまだ成長の途上にいます。
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2015年12月20日

グリーン復興会議、次なるステージへ!

今日は、東北大学での「グリーン復興」会議で非常に充実した議論ができた。結果から言うと、「グリーン復興の知恵」をコンテンツ化する計画を今年度から着手することになった。この会議体で発表され共有された多くの事例に対して有志による取材チームを構成し編集していく。

東北の明日、日本の将来、そしてアジア諸国の災害に苦しむ地域の将来に、少しでも役立つツールを目指してみようと、来年以降の集まる機会も、取材&編集作業の進捗に合わせて2回の予定となった。その議論の経緯と詳細を以下に記してみる。


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東北大学の「海と田んぼからのグリーン復興(通称:うみたん)」会議。2011年4月に立ち上がったこの会議も今回で22回目の開催。来年の3月で5年の節目を迎えるにあたって、今日は「グリーン復興」とは何なのか?をこれまで会議で共有した78団体、54活動事例を振り返り、2020年のオリンピックパラリンピックや、2021年の10年の節目に何が出来ているのか考えることにもなった。

これまで取り組んできた内容は、エコツーリズム、海浜植生の回復、第一次産業の新たな一歩、巨大防潮堤、コミュニティ再生、自治運営そのものまで、全て現場でのアクションであり、地域住民が主役であり、それをどのように関わって、地域の自然を大切にした町づくりを進めることができるのかを考えるプロジェクトと言える。

プロジェクトのリーダーである中静透東北大学教授は、これまでの5年を振り返り何らかのカタチで残し、今後を展望できたらと考えており、今日は代表的な事例の「東北沿岸部の海浜植生の再生」「浦戸グリーン復興プロジェクト」の発表と今後のプロジェクトを議論する進行案を組んだ。

後半の議論から記すと、事務局の岩渕翼くんからこれまでの参加団体と事例を紹介し、今後をどのように考えていくのかの口火を切ってもらって、中静さんから今後を考やすくするため論点を整理していただいた。

中静さんの冒頭、初心に戻るために振り返った2011年5月22日に環境省のイベントで行った「グリーン復興宣言」は懐かしくさえ感じるものだったが、「主な活動目標」を良く読むと現在を見抜いたかのような記述が眼に飛び込んできた。

抜粋すると、
===
1.生態系の機能を活用した災害のリスクを和らげる土地利用
■沿岸の水田復元、湿地の力で農地の地力を回復。復元が難しいところは、新たな自然再生の場(干潟、海岸湿地)としての利用。
■オフセット、税制優遇制度(保全地役権等)、保険など災害を緩和する土地利用に関する資金メカニズム。

2.流域全体の生態系からの恵みを低下させない防災・造成の配慮
■海の自然の保全と良質な水源確保のため、適切な森林管理や土砂流出の少ない土地開発。
■海の生物資源や、生物の移動に配慮した建造物(鉄道・道路)を作る。浸水の流れを緩和し自然と調和する建造物の工夫。

3.生態系とその回復力を活かした、持続可能な営みの創造
■地域の農林水産業、観光、教育計画を構想する際、地元文化と生態系の回復力を取り入れて営みを考え共有し合意形成を図る。生態系からもたらされる景観や、郷土の持つ文化的な価値を積極的に高める。
■バイオマスエネルギー、小水力など、小規模な自然エネルギーを利用し、集落のエネルギー自律性を高める。
■東北の豊かな食文化・地域資源を通して、復興と生物多様性の両方を支える他地域からの長期購買予約や投資などの、安定的な資金メカニズムをつくる。
===

まるで、南三陸で町民の皆さんや町役場の皆さんと共有して進めている活動のテキストのようで、被災直後の視察をした中静透教授、河田雅圭教授、占部城太郎教授は、これらの事をこの段階で文字にしていたことの驚き。少し冷静に考えれば極めて基本的な事なのかも知れないが、まさに慧眼。ちなみに僕は、写真家として町を俯瞰して視点を深めて安定させて絞り込み、皆さんとの交流を深めながら考えを整理して、ようやくこの内容に追いついて進めている状態。

中静さんの話しを続けると、このプロジェクトの特徴的な成果として、
モニタリングの東北地方太平洋沿岸地域自然環境調査しおかぜ自然環境ログ
企業連携の東北グリーン復興事業者パートナーシップ 
などの展開も意義深い成果とした上で、これまでの復興の方向性と状況、各事例の進展、プロジェクトの役割、実際の活動に対する助言、行政などに対する発信、情報交換を行ってきた実態から5年間の総括を行い、今後の活動のあり方について整理。

1、発信の方法と形態
2、今後の活動のあり方
3、資金

ここから僕が議論を進行し、参加者から本当に活発に意見を出してもらった。それをボードに書き留めながら、議論を整え方向性を探りつつ、感じつつある出口に向けて議論を流し込んでいったのだが、「発信の方法と形態」について丁寧に時間を割いた。というのも、もしかしたらこのプロセスがプロジェクトの軸になるのではないかと議論をしながら感じたからである。一般に、「グリーン復興」という言葉は馴染みにくいので「町づくり」といったほうが受け入れられるという言葉の問題から、媒体社と連載など企画連携して成果物を作る、学術的な報告書形式にする、一般に向けたビジュアル書籍にするなどの形態のイメージや、読み手は何を期待してこのどのように活かすものを作りたいのかというアウトカム(具体的な成果)をイメージすることまで、多様な議論ができた。その結果、

1、出版物として残す
2、このプロジェクトで共有された事例を活用する

という前提のもと、

ターゲットは、
1、東北で今もこれからも活動に取り組む人
2、来たるべき災害へ備えて活動している人
3、沿岸部に限らない社会課題を抱えた地域の人
4、海外の被災地などで活動する人

形態は、

1、自治体職員や研究者向けのようなドキュメント
2、一般に読みやすい内容に加工した書籍

の2方向が浮かんできたところで、上田壮一さんから参考事例を踏まえた発言あった。

1、震災イツモノート 
2、タイムラインマッピングプロジェクト

その結果、「グリーン復興の知恵」をこの2つの手法を参考にコンテンツ化するという実像が見え、問いかけるメッセージも以下のように整理できた。

1、地域の自然を防災・減災に活かしませんか?
2、地域の自然を活かした復興をしませんか?

そして、「グリーン復興」のロールモデルを「南三陸町FSC、ASC認証を活かした町づくり」と「浦戸グリーン復興プロジェクト」とし、それぞれ取材しながらコンテンツの中身を具体化する。

資金に関しては、基本は東北大学で調整するが、事務局をサポートするCEPAジャパンなど参加団体も協力することとし、ロールモデルは今年度の事業として着手。来年度に78団体、54事例の中から取材に応じてもらえる事例は基本的にすべて実施する計画とした。

早速、取材チームを構成、今井麻希子さんをリーダーに、上田壮一さん、服部徹さん、岩渕翼くん、岸上祐子さん、僕が、中静先生達と連携を図って動く。

そして、来年の活動そのものは、この事業を軸にして役割に応じた会議の開催という方向が浮かんできた。

2016年前半 活動報告の共有+出版物の目次作りを目的としたワークショップ
2016年後半 出版物のお披露目会

また来年9月にハワイで開催される国際自然保護連合の世界自然保護会議と、12月にメキシコで開催される生物多様性条約締約国会議を見据える。

以上の内容を参加者の承認を得て議論を終えた。


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他に、今井麻希子さんからは国連防災会議で採択された「仙台行動枠組」の中で、グリーン復興を実体化させるべくという呼びかけもあり、「生物多様性」「生態系」「気候変動への適応」の3つのキーワードの入った文章を引用元として、コラムの付記をしてもらえるよう検討してもらうことになった。

===
仙台行動枠組
I. 前文
兵庫行動枠組:教訓、確認されたギャップ、今後の課題
5. 人、コミュニティ、国家、その暮らし、健康、文化遺産、社会経済的資産、そして「生態系」をより効果的に守るために、災害リスクを予測し、そのために計画を立て、そして削減すること、それによってそれぞれの強靭性を高めることが、緊急かつ重要である

VI. 国際協力とグローバルパートナーシップ
一般的考慮事項
実施方法
(d) 貧困削減、持続可能な開発、天然資源管理、環境、都市開発及び「気候変動への適応」に関連した、各セクター内やセクター横断的な多国間及び二国間の開発援助プログラムに、適宜、災害リスク削減の各取組を統合する。

優先行動2:災害リスク管理のための災害リスク・ガバナンスの強化
世界レベル及び地域レベル
28. この達成のために重要な行動は以下のとおりである:気候変動、「生物多様性」、持続可能な開発、貧困撲滅、環境、農業、保健、食料栄養など、災害リスク削減に関係する施策の実施と調和のため、地球規模・地域的な仕組みや機関の協働を促進する
===

また、残念ながら療養で欠席となった北海道の鈴木玲さんの「北の里浜 花のかけはしネットワーク」としての岩手から宮城の各地沿岸部の海岸植生の精力的な再生活動「地域を超えた恊働による海浜植物の一時的避難と再導入」について。

名取市閖上の大橋信彦さんと僕とで報告し、特に今後の活動で巨大防潮堤の上にその地で採集した種子を入れた土嚢を設置し穏やかな連続性を生み出す計画は、今後の彼の活動の重要性と必要性を大いに感じるもので、多くの協賛企業を得られたらと切に願い、こちらの活動もサポートできたらと考えている。


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2015年11月11日

鷲尾倫夫さんの写真展「巡歴の道オキナワII」を観た。

鷲尾倫夫さんの写真展「巡歴の道オキナワII」

鷲尾さんの眼を通して沖縄を俯瞰するような内容だった。前回の写真展では、鷲尾さんが沖縄に対して構えていたというのか、見る側に緊張を強く感じさせる内容だったように記憶している。それに比べて柔らかく感じた。最後から3枚目に少年の写真がある。この1枚でやはり優しいと感じ、2周目にこの写真を観た時に、この少年は鷲尾さんだと気がついた。というか鷲尾さんの意図を見抜いた。

鷲尾さんも沖縄に通いながら変化していったようだ。古老から話しを引き出すことから、語りを待つようになったという。それも眼を観ながら待つという。きっと年上からしたら人懐っこく見える鷲尾さんの瞳にひかれるように語るのだろうと想像する。

明るい時間に何度か通った洞窟に夕方向かったそうだ。どんどん日が暮れるにつれて空気が重くなって息苦しくなり、ついには立てなくなりうずくまったという。そんな沖縄の呪縛も体験し、鷲尾さんは何かの一線を越えられたのかもしれない。人々に向ける視線が鷲尾さんが本来持つ優しさに貫かれているのは、それが理由なのかもしれない。そしてあの少年を見つけるに至ったのかもしれない。

全体を通して時間が止まってしまったような、置き去りにされてしまったような沖縄が浮かんで来たり、余りあるチカラを抑圧され抱えたままの若者がいたり、誰にも言えない物語を心にしまって今を生きている古老があまりに自由でいたり、今の沖縄を鷲尾さんの本来の優しさとフォーカス時代に培ったスナイパーとしての鋭さとで表現されている。

通ううちに古老から「ご飯は食べたのか?」と聞かれるようになったという。「どれほどご馳走になったかわからないが、本当に美味いんだ。」という。それだけを聞くと地域に入っていく典型的な手法なのだが、それでも外の眼で沖縄という一つの地域を見つめる。沖縄には沖縄の時間があり、それを自由に撮っているだけだと鷲尾さんは言いたいのかもしれない。

黒人を撮った時に、相手が「何故撮る?」と迫ってきたらしい。その時に、あまりにピュアでストレートで美しい写真家らしい言葉で鷲尾さんが返したら、スッと体の力を抜いて「オーケーだ」と言ったらしい。その言葉を僕はいただくが、ここには記さないようにしようと思う。僕だけが教えてもらった写真家の企業秘密のようなものだから。

鷲尾倫夫さん、2009年に僕が新宿ニコンサロンで個展を開催した時に出会って以来、お手紙をいただいたり、2013年の鷲尾さんの展示でも語り合い、淡々としたペースで親交させていただいている。恐れずにいうと、僕にとっては写真を見る眼を試される写真家の良き大先輩になっている。

2013年の鷲尾さんの展示のことを書いたブログはこちら。
2009年の鷲尾さんとの出会いを書いたブログはこちら。


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2015年05月31日

東北の海岸林3 ヤマセに包まれる

5月30日(土)
この週末は、小泉海岸と陸前高田。爽やかな青空のもと、お気に入りのジャパンレッドに乗って、撮影機材だけを担いで向かいます。

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一関駅からレンタカーで一気に気仙沼市内。真夏のような雲が泳ぐ空の元、気仙沼の尾崎神社を起点に南下、と言っても心に引っかかる風景だらけで遅々として進まず。岩井崎、階上、御伊勢浜。

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すると夕方から急に海から薄く雲が広がってきたなと思ったら、あっという間のヤマセ。一気に濃い霧に包まれ幻想的な景観でさらに印象的な風景、特に明神崎で出会うことができ、半日とは思えない多彩な撮影をして日没後に小泉海岸に至る。

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シーサイドパレスの撤去のための土木工事が始まっていた。夜ご飯は小泉の阿部正人さんと小野寺久一さんとご一緒させてもらい、地域で生きていくエネルギーの凄まじさに感銘を受ける時間となった。陸前高田の港湾施設の駐車場で車中泊。

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5月31日(日)

高田松原を守る会の皆さんを訪ねた。

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以前、東北大学のグリーン復興会議で鈴木会長にはお会いしていたがそれっきりだった。鈴木会長、小山副会長にいろいろお話を聞かせてもらって有り難い一日。同世代の渡辺さんにご丁寧に対応いただき感謝。

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主に高田松原で拾っておいた松ぼっくりや、津波の後で拾った松ぼっくりなどから育苗。さらに松原再生に向けて造成地の状態を想定して試験的に育苗。全国各地からのボランティアの皆さんの支援で着実に作業を進め知識を蓄積される姿は、50年後に再び松原が戻る日に向けた地拵えそのもの。この粘り強い郷土愛に心を打たれまくった今日だった。

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昼食のとき、まさに津波に襲われているときのこと、なまなましいことを自然とお話されていたが、皆さん、今になってようやくこのように話せるようになったと声を揃えていたのが印象的だった。

午後は、鈴木会長のポートレイトと、鈴木さん、小山さんの作業を撮影。

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長洞の漁港の脇にある松の木立に引き寄せられ撮影。日没は一本松を周囲の工事現場から撮影。地域で生きるチカラをしみじみ感じる2日間に感謝!

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2015年05月05日

東北の海岸林2 あてのない旅

4月29日(水)
あてのない撮影の旅に出ました。今夜はここにいます。新緑の風景から積雪の風景へ。

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(乳頭温泉)


4月30日(木)
下北半島です。菜の花と風力発電。総ヒバ造りの温泉!今日はここに投宿します。周辺には東北森林管理局の青森ヒバ施業実験林があります。

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(薬研温泉)

5月1日(金)
今日の午前、寒立馬と尻屋崎灯台。出会い頭で、良いタイミングでした。猿が森ヒバ埋没林に立ち寄り、下北半島の太平洋側を一気に南下。ヒバの施業林が延々と続きます。

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三沢市。津波被害はこの町からのようで、真っ白な防潮堤が視界に入ったので、明日はここから撮影開始と決め町の人ご用達の古牧元湯でしっかり温まり、今夜から車中泊です。

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(古牧元湯)

5月2日(土)
大好きな旅の途中です。三沢市からは津波被害の海岸林を撮影目的に絞って南下。八戸市の大須賀海岸でも被害の痕跡をみましたが、幼松が自然に生えてきていました。海岸沿いをキョロキョロしながらの走行で、なかなか距離を稼げないノンビリ旅。4泊目は久慈市の山中にあるべっぴんの湯で体を温めてから港湾地区の公園で車中泊。天然温泉の熱めの良い湯!夜中に警察の職務質問。懐中電灯で車内を照らされ安眠妨害なり。

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(べっぴんの湯)

5月3日(日)
目覚めると南の小袖方面にヤマセが覆い被さっています。野田村に入り数本の立ち枯れた松が残る十府ヶ浦が強烈に印象深く、普代村では大きな水門に佇みました。近くの山から鋭い猛禽類の鳴き声が響きます。漁港では巨大な防潮堤に圧倒されつつ、黒崎の燈台とアンモ浦展望台に立ち寄り北山崎に至りました。お昼はここにしました。ここでもヤマセがフォトジェニックな景観をさらに演出していました。

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夕刻に田老です。真新しい港湾施設が復興のチカラを感じ、町中は破壊された防潮堤が目を引きます。僕も含めて多くの人々が観光見学に立ち寄って行きます。
今夜は宮古市内の旭湯。源泉ではなく、北海道の炭酸カルシウム温泉を使った懐かしの銭湯でした。今日も寄り道だらけで100kmほどしか前進できませんでした。車中泊も3泊目。旅に出て5泊目です。何だかとても自由で、自分の社会的ポジションを忘れてしまいそうな今夜です。

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(旭湯)

5月4日(月)
5時起床で浄土ヶ浜。今日は駆け足ペースとなり陸中山田、大槌、根浜海岸、釜石を経てお昼に大船渡。四季旬菜中村の浜っこ丼は新鮮で美味しかった。午後は陸前高田、奇跡の一本松。溢れる観光客の1人として来ました。周辺のベルトコンベアと広大なカサ上げ工事。7万本の松原が蘇る事を願います。気仙沼市内を通り抜け、今回の旅の最後の撮影ポイントになったのは、気仙沼は階上の海でした。

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下北半島まで北上して、最北端の尻屋崎から約400kmを4日もかけた寄り道だらけの旅。三沢市からは津波被害の海岸林を訪ねる旅。これからも大好きな海岸林を撮り続けたいと、気持ちを新たにする旅でもありました。


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2015年01月17日

阪神・淡路大震災から20年

あれから20年。はやくも20年。ようやく20年。

人が成人するだけの歳月も経てば、風化は当然なんだと感じていました。だからこそ誰も語っていないことを語る必要がある。伝える必要がある。責任もある。しかし、これまで被災体験は境遇によって違いがあり自分の経験が語るに値するのかどうか自分では判断できない。機会を与えてもらって語ることを許されたように安堵して話をしていました。

今日という日に芦屋の町を歩いて、僕も被災した者として語って良いんだという、何と言うか解放を感じたのです。

自分だけの物語にしない。むしろしてはいけないとさえ感じました。人の数だけ物語がある。言葉では判っていたけど、僕も物語る一人で良いんだと思えました。これまでは写真で表現することで補っていたのかもしれません。写真の力を借りなければ被災者だとは言えないような感覚だったのかもしれない。それは、僕よりももっと辛い想いをし苦労をしている人が圧倒的に多いからそう考えて当然だと思っていたのです。

しかし経年劣化ではなく風化によって、被災の大小、強弱ではなく、誰もが物語の主役であって、その物語を一人でも多くの人と共有することが、次への学びとして人のためにもなり、人としての成長にもなる。

2015年1月17日、僕は初めて芦屋公園の慰霊と復興モニュメントで、記帳して献花して手を合わせることができました。これまで、僕にはそんな事をできる資格はないと思っていたので、とても清々しい気持ちで松林を歩く事ができた。被災から20年を経て、僕もようやく被災者として成人できたのかもしれません。

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芦屋公園の献花台。

故郷にある芦屋市立美術博物館の看板に「一年後の桜」が咲きました。この地に生まれ、この地で被災し、想いを記録した者として一言。「感無量」です。

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芦屋市立美術博物館前

2015年1月17日、芦屋市立美術博物館の第二展示で感じたままに。写真の一人歩き、一人語り。

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展示作品の前で美術館の皆さんと

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2015年01月11日

写真家という生き方

2013年に出版されたセバスチャン・サルガドの特大写真集「GENESIS」を久しぶりに開いてみた。

初めてページをめくったときに震えるような感動をしたけど、そのときよりも静かに深く染み入ってくる。サルガドが言いたいことは強烈に視覚が刺激されて脳にビシビシと伝わってくる。これだけのスケールで作品を撮って編集できる写真家は世界で一人しかいない。圧倒的なチカラを感じる。

情緒的に「創世記」と訳していいのか、ストレートなメッセージである「起源」と捉えていいのか、地球に暮らす生命体の起源を表現したものだと受け止めた僕には「起源」と読める。


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サルガドは、ブラジルの農家出身で、大学で経済学の博士をおさめ、独学で写真家となって世界中の飢餓貧困、過酷な労働など、人間社会の歪みそのものを撮影してきた。その結果、本人の精神も病みつつあり写真家活動を休止し帰郷した。

そこで、年老いた両親から受け継いだ農地が世界で起きている社会問題と同じく森林破壊の場となっていることを知り、地球に住まう生命体としての基本に立ち返る精神で思考するようになった。気候変動、生物多様性、循環型、人間社会の言葉に置き換えるまでもない思考で農地を森林に戻し、写真家として再び機材を持って世界を駆け巡った。それが「GENESIS」となった。

これ以上のメッセージがあるだろうか?

これはサルガド自身がTEDで話したことです。16分ほどで人生を語っています。世界中に多くの素晴らしいTED Talkがありますが、僕にはこのTalkが最高峰であり、もっとも影響を受けます。そしてもっとも理想的な解決策の提示だと思います。

写真家という生き方が、単に人より良い機材を持って、人より撮影に関する知識を持って、人より上手に撮影するだけでなく、いきざまそのものからにじみ出る作品が、人の心に突き刺さるメッセージとなること。

「写真は哲学」「写真家はいきざまそのもの」

1991年から2年間通った大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ大阪)の先生たちから叩き込まれた精神、というかその先生たちそのものの生き方から学んだこと。これは、僕が受けたいかなる授業よりも価値のあるものだったことを再確認した。

今年で阪神淡路大震災から20年。死を意識した20秒ほどの激震、そしてタンスの下敷きという被災体験。震災前の1991年から2005年まで撮影した作品を編集して震災10年後に出版した「一年後の桜」。その続編のような形で、生まれ故郷への想いをカタチにした「芦屋桜」という写真集を出版します。

この行為自体がとても正しいことだったと思える今日。東日本大震災から3年と10ヶ月の月命日。写真家として死ぬまで精進したいと想いを新たにした日。そして、日本で広告会社に働き、非営利組織の代表を務め、写真家として生きたいと願う自分ができること、すべきことを見つめ直す時間ともなります。ブログに備忘録として記します。


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写真集「一年後の桜」と校正中の「芦屋桜」

posted by 川廷昌弘 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする