2016年06月06日

東北の海岸林 5 浜昼顔と潮騒

例年より早く訪れたハマヒルガオの季節。先月の撮影で撮りこぼしたポイントに向かう。6月4日(土)に南三陸で会議を行ったので、せっかくの機会を活かしレンタカーで南下する事にした。

6月5日(日)

石巻の渡波海水浴場から開始。アメリカの写真家Robert Adamsの手法に刺激を受けて追加撮影。続いて七ヶ浜に向かう。浜沼の小さな浜辺。沖にテトラが入っているのが残念だけど、スネほどの段差が堤防のようになっているだけで松並木に守られた素敵な景観。足元にはハマヒルガオ。七が浜の正面は既に防潮堤で海は見えないが、高い目線の眺望は広い砂浜が広がり一安心。

仙台南港の波乗りポイントを初めて眺めてから蒲生干潟周辺。広い広い長い長い砂浜。ここには防潮堤はない。人知れず一面に広がるハマヒルガオと、播州高砂が由来の高砂神社の老松の松韻。思わず目を閉じる。海辺にあるべきものがそこにある安堵感。平時の営みが戻ることを祈る。そして夕暮れの荒浜に着く。貞山堀の遥か向こうに広がる砂浜、その波打ち際に防潮堤の建設が見える。海が見える状態を写真で残す。

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荒浜の夕暮れ

これで、青森の三沢市から茨城県の北茨城市まで約550kmほぼ海岸線で走破した。下北半島の尻屋崎から南下し、三沢の海岸で津波の爪痕を見つけたのでここを起点とし、岡倉天心の六角堂が津波後に再建した事をきっかけに、日本美術院の志から想起するものがありここを終点として撮影エリアと定めている。これで、このシリーズのフレームが浮き彫りになったと感じている。今後は情緒とメッセージを付加する補足撮影になるのかなと思う。鳥の海の脇にある「わたり温泉」で疲れを癒し閖上浜で車中泊。

このシリーズとは、2009年に新宿と大阪のニコンサロンで発表した「松韻〜劉生の頃〜」の東北版になる。湘南のシリーズもコツコツ継続しており並行して撮影している。湘南のシリーズでは松のある風景が与えてくれる感性を過去に遡り、東北のシリーズでは感性を未来に残すことを表現できたらと思案している。ハッセルブラッドに80mmの標準レンズ1本だけでモノクロフィルムで撮影するという根気のいる作業。さてはてそんな理屈が実現するのかどうか、どれだけ時間が要するのか、自分を信じてやりたいと思う。

6月6日(月)

朝5時起床。曇天だが雲の切れ間から太陽。朝日に照らされる海の撮影。ハマヒルガオやハマボウフウも咲く浜辺は花園。天気予報は一日曇天だが、少しでも晴れてくれることを期待して常磐道を双葉海水浴場に向けると、山沿いを走るからか段々と雲が重たくなり雨が降ってきた。海側に目をやると空は明るいので、きっと大丈夫と諦めずに先を急いだ。

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閖上の浜

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閖上の浜昼顔

福島第一原発に最も近い海水浴場。先月に初めて訪れ引き込まれた撮影イメージの象徴的な場所。間もなく工事に入りそうなので最後の撮影チャンスだったのかも知れない。広い砂浜には誰の足跡もない。人工物は壊れ、その上に砂や草がゆっくりと覆っている。このまま活用したら良いのにとつくづくと思う。そんな想いのままに撮影。すると段々と青空が広がりいつの間にか夏色の砂浜と海。

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双葉海水浴場

続いて先月に辿り着けなかった撮影ポイントに向かう。富岡駅のすぐ近くの海岸。福島第二原発の煙突から出る水蒸気が見える。立ち枯れた松。壊れた堤防。海辺の原風景がここにはあったのだろう。そこに海を隠す防潮堤の建設。海岸のすぐ近く草に覆われた線路も撮影。

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富岡の堤防

楢葉町の本釜の海岸。大きな玉石と打上げられた松が目立つ。砂浜はきめが細かい。ハマヒルガオも遠慮がちに咲いている。しばし佇む。

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本釜の浜

次に広野火力発電所の脇の岩沢海水浴場。車を止めて松に囲まれた階段を降りると発電所に添ってブレイクする波にサーファーが一人占め。小さな海水浴場だけど、子ども達の歓声が聞こえてきそうな印象深い場所。続いて広野の大きな海岸に出たが、防潮堤工事の内側に法面が異様に広く高さのある道路工事。ここで補足撮影が突然に終了。まだモヤモヤするので楢葉町の本釜の海岸に戻って撮影に没頭した。17時を過ぎて今回の撮影終了。最後まで太陽が付き合ってくれて晴れ男の面目を保てた。

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岩沢からの眺め

ここから一気にいわき駅に向かう。iPhone地図アプリで検索すると大きく迂回する県道35号線が常磐道と大差なく着くと示すので走ってみた。山間部や里山風景を抜ける素敵なドライブコースで車窓を楽しみながらいわきへ。レンタカーを返し特急ひたちに乗って帰路につく。

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本釜にて。


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2016年05月14日

大磯の松韻。明治の風。

今日は久しぶりに大磯を歩いた。

明治の元勲たちが聴いたであろう松韻を拾い集めることができたらと思って歩き始めた。

鴫立庵の前を通り、町役場の脇から入ると良い風景が残っている。元の林董邸。その隣の尾張徳川家の義詮の別荘跡地には新しくマンションが建っていて、以前のように西日に石垣が照らされる撮影を考えていたが不可能。過去に撮影したものは貴重な一枚になった。

陸奥宗光と大隈重信の別荘は古河電工の大磯寮、隣の鍋島直大の別荘跡地に大磯プレイスが建っているが、開発大手デベロッパー連名で特別緑地保全を行っていることを示す看板があり、樹高のある老松が多く佇みスケールの大きな風景が維持されているのが素晴らしい。

伊藤博文の滄浪閣は、西武から保全を目的とした個人の所有に変わっており、金額で負けた大磯町としては保全に期待をしている状況。大きな駐車場は活用されており、海側から振り返ると約2万坪のスケールの大きな邸宅を想像できる。隣の池田成彬邸はそのまま残されている。

海側に出ると、こゆるぎ緑地に至る。ここは大磯町のトラスト基金で購入されNPOによる手入れが素晴らしく、砂地に松が育林されておりハマヒルガオも咲いている。その西側の柳原緑地は、あまり人の手が入っていないためにフォトジェニックな場所が散見。

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2009年に全焼した吉田茂邸。引退後も影響力が大きく”大磯詣”が続いたという。いま再建工事が進んでいるが、1万坪の敷地は県立公園として公開されている。サンフランシスコを向く本人の銅像。そして滄浪閣にあった五賢堂(木戸孝充、大久保利通、岩倉具視、三条実美、伊藤博文)をこの地に移し、現在は西園寺公望と吉田茂本人を合わせた七賢堂。松の間を抜ける道に、木陰が良い演出をしてくれている。

島崎藤村が晩年を過ごした静の草屋。書斎にした四畳半、縁側のある広間。「余にふさわしい閑居なり」と夫人への手紙に記し、この家での生涯最期の一言は、未完の「東方の門」の書きかけの原稿を読んでくれている夫人に話した「涼しい風だね」だった。なんと美しき人生の閉じ方よ。

こうして大磯版”兵どもが夢の跡”を1日かけて歩いてみると、大磯ならではの松韻の聴こえる風景が明治の風に乗って見えてきた。

最後に大磯海水浴場から唐ケ原まで歩き、ハマヒルガオとハマボウフウの広がる風景を撮って終了。

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ハッセルブラッド500Cに、プラナー80mmのレンズ1本。 モノクロフィルムによる「松韻」シリーズ第2弾。もっと深めていきたい。本日は4本撮影。


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2016年05月05日

東北の海岸林 4 松の記憶を撮る

4日間かけて東北の海岸林の撮影。

今回は、石巻から北茨城の五浦海岸まで南下の予定だったが、天候の問題で七ヶ浜から荒浜までを次回に積み残し。これで青森の三沢から北茨城までの津波の被害にあった松たちに出会う旅がほぼつながる。

1回目のブログ 2013年5月3日−5日 松川浦から閖上まで北上
2回目のブログ 2015年5月1日ー5月4日 青森尻屋崎から気仙沼の階上まで南下
3回目のブログ 2015年5月30日ー31日 陸前高田から小泉海岸を補足撮影

復興していく中で、立ち枯れた松が残されているだろうか、何とか留まった松たちがどんな事を語りかけてくれるのだろうかと考えながら、東北の人たちの記憶にある「松韻」に想いを馳せるシリーズにしたいと考えてコツコツ撮っている。

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5月1日(日)

さて、くりこま高原まで新幹線で向かい、11時半に駅前でレンタカーを借りて石巻へ。

石巻の渡波海水浴場。真新しく完成したばかりの大きな防潮堤。わずかに残る波打ち際には、打上げられた牡蠣がらの中に松の根っこが取り残されていた。海を隔てた大きな壁の内側には津波の傷跡を残した松林。降り出した雨に打たれながら集中していくと、段々と見えて来た情景を切り取ることができた。13時から14時半まで撮影。

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東松島の青い鯉のぼりに不意に出会う。弟を失った男性が始めた取り組み。とても共感していただけに嬉しい出会いだった。雨の湿気のためCANON EOS 5 Mark IIIが曇ってしまうトラブル。時間が解決すると信じて少し佇む。

次に向かったのは東松島市の北上運河の近く、黒松の植樹が進むエリアに取り残された松を選んで撮影。続いて鳴瀬川を渡り野蒜海岸で気になる一本松を撮影。この風景はGoogleのストリートビューのロケハン?で見つけていた岩のある風景。デジタル既視感というか、初めて訪れる場所なのに勝手が判る不思議。ここで雨が上がり薄日が差し込み夕暮れを迎える。松島に着く頃には完全に雨が上がったが日没が近く七ヶ浜を諦める。

雨中撮影はかなり疲弊したので、4日が荒天の予報のため、明日と明後日を福島撮影に切り替え一気に南下。「亘理温泉 鳥の海」で雨で冷えた体をゆっくり温めて、打ち寄せる太平洋の波の音と、鳥の海を臨む露天も満喫。そのまま一気に「道の駅そうま」まで走り車中泊。

今日の印象は、造成工事が進み海岸線が新しい開発地に生まれ変わっていること。爪痕に佇むというシーンではなくなってきている。この中で、どのような被写体を選び世界観を作るのか。しかし、この変化を写し取ることも、このシリーズに託されることのようにも感じる。写真は記録であり記憶である。

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5月2日(月)

6時起床。フロントガラスに雨がポツポツ。何とか上がって欲しいと祈りながらスタート。

松川浦のほとりを走り海辺へ至ると、雨も上がり点々と佇む松に呼ばれて撮影モードに入る。昨日と違い、地形によって崖の上に佇む松も多く”ほふく前進”の撮影となる。南相馬の磯の上地区に佇む松、右田浜で保存活動が活発な「かしまの一本松」、原町の火力発電所を通り過ぎた辺りの間形沢にある崖も爪痕が残る。村上海水浴場では工事現場に立ち枯れた一本松が残り、村上城址の近くにある湿地の脇には二本松が佇む。いずれも海岸線には真新しい白い大きな防潮堤が海を遮る。

撮影の途中にパトカーに声をかけられる。不審者が多く警戒態勢が続いているが、伊勢志摩サミットのために人員が足りず充分に注意して欲しいとのこと。南相馬周辺では、菜の花畑が広がる。除染能力を期待しているとしたら切実な風景。

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さて、いよいよマリンパークなみえを越えて帰宅困難地域であることを実感する風景の中を走り、福島第一原発に最も近く通行規制のゲートの脇にある双葉海水浴場に12時半頃に至る。

不気味なほどに全くの無人。良い波が打ち寄せる海岸も誰もいない。内陸も遠くまで見通せるが走る車も人もいない。聴こえる音は自然の営みだけ。マリンハウスふたばの時計は15時35分を指したまま。青々とした松林と立ち枯れた松林の二つのゾーンに別れており1日かけて撮影したい場所。この間に浴びる線量がどの程度になるのかわからないが、ゆっくりと時間をかけて撮影することとした。多くの人が、海水浴や波乗りに訪れたであろうことを想像しながら、感じるままに構図を決めて撮り続ける。

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撮影に手応えを感じ、この勢いを維持しながら次の撮影地に向かうが、予定していた熊川海水浴場、富岡浄化センターなど海岸には近づけず。クルマのみ通行可能な国道6号を走ると、左右に見える町は死んでいた。枯れ草が延び放題。道路脇の店は全て休業。バリケードで守られた民家も暮らしの温度が全くない。背筋が寒くなるような光景。警察官だけがこの区間で目にした人間だった。原発再稼働に躊躇のない政治指導者は、この光景を見たことがあるのだろうか。この光景を見ても何も感じないのだろうか。

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何とも言えない気持ちで走っていたら気がついたらいわき市。今日の疲れは湯本温泉で癒すことにして、松と語る旅らしく老舗の「松柏館」を選んだ。源泉掛け流しの熱いお湯。幸せな気持ちで「道の駅よつくら港」で車中泊。

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5月3日(火)

5時半起床。

今日は晴天を活かした撮影をトライ。

まずは、真新しい防潮堤によって海が見えなくなった新舞子公園をどのように撮ろうかと風景全体を見ていたが、ふと目に入った一本の松を見てこのシリーズは対話であることを思い返した。7時頃から2時間かけて撮影。続いて訪ねた合磯海水浴場では、松林が防潮堤の内側の荒涼とした場所に佇んでいた。

小名浜に向かうと、ちょうどお祭りに出くわす。多くの大漁旗がはためきとても鮮やかに目に飛び込んで来たが、震災後に漁業復興への機運を高めるために掲げたと後で知った。

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新しい防潮堤の外側に、漁港と砂浜が佇む小さな入り江の小浜には10時半頃に到着。生き残った数本の松がとても大切にされている印象のまま穏やかな気持ちで撮影。

勿来の火力発電所の奥、岩間地区で見つけた海が見える旧堤防の駐車場。ホッとする場所。このまま残って欲しいと思う。

同じ海岸線で鮫川を挟んだ対岸、蛭田川を中心に広がる菊田浦の砂浜では大きな法面を擁する防潮堤が延々と続くが、その内側に震災前は潮風に直接吹かれたであろう松林が広がる。多くの松と語り合った。

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北茨城の五浦には、予想より早く14時頃にたどり着き、余裕を持って撮影。天心が聞いたであろう松韻にゆったり耳を傾ける。こんな住環境に憧れる。その後、少し国道6号を南下して、中郷周辺、二ツ島周辺で松の木に呼び止められ日没まで充実した撮影。

天気予報では、夜から荒れ模様のようなので道の駅での車中泊を考え、少し距離があるが内陸の常陸太田市にある「道の駅さとみ」に向う事とし、途中にある「中郷温泉通りゃんせ」で夕食を食べゆっくり湯船に浸かった。

2日間かけて眺めた福島の海岸は、帰宅困難地域を除いたほぼ全域が、海が見えない要塞のような防潮堤が続いていた。日本の海岸線の景観が、黒松林の向こうに白い大きな構造物が見え隠れして、青い海は完全に見えないものになって、白砂青松が白壁青松となった事を実感する。

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5月4日(水)

5時半起床。今日は土砂降りの目覚め。

予報では昼前後に上がるので、ゆっくりと準備して走り出す。土砂降りの雨に煙る国道461号線。木造の集落が広がる美しい日本の里山風景。

五浦美術館入り口の交差点に近いお座敷カフェで朝のコーヒーを飲んで、10時頃に天心記念五浦美術館。天心の志や表現の刺激を受け、一気に晴れ上がった青空のもと六角堂に向かい撮り直しをトライして納得。

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その後、遅めの御昼ご飯をヨークベニマルで仕入れて、14時頃に昨日見つけた岩間地区の駐車場に向かいお湯を沸かしながらゆっくり食べる。

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16時過ぎに常磐線の泉駅に向かい、レンタカーを返却してチケットを買い直し、17時半のひたちに乗車。東京駅では常磐線と東海道線が同じホームで乗り換えがとってもラク。スムーズに4日間の撮影旅を終了した。

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今回4日間の撮影枚数は、今回のメイン機種であるハッセルブラッドでモノクロフィルム12枚撮りを20本。内訳は1日目3本。2日目8本。3日目6本、4日目3本で、双葉海水浴場で集中したのでフィルムにしてはハイペース。暗室作業が楽しみ。CANON EOS5 Mark IIIは約500枚、コンデジのCANON S110は約100枚で少なめ。

自分の能力を自分が信じてやらねば、いつまで経っても自己満足の写真に終わってしまう。個性と普遍。このシリーズにはそれが両立できていると信じて頑張る。


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2016年04月07日

春の夜、雨上がり、海鳴り

雨が上がり、潮の匂いがする湿った南風が、気まぐれに強く吹きます。

夜、帰宅して玄関の扉を開くと家の中の方が冷んやり軽く感じて、外の気温が思いのほか高いことに気づかされます。

部屋に入ると、ドンドンと風が窓を叩く音。その窓を開けると、潮の匂いとともに生暖かい空気が入ってきて、ゴーっと海鳴りが空から聴こえてきます。

海辺に住み始めて知った、風物詩のようなこの体験が、僕はとても好きです。

いつの間にか冬から春へ、そして初夏への季節の足音が、聴こえてきそうな、体に染み込むような、なんともワクワクする幸せな瞬間。

アスファルトには桜の花びらが散っている。そんな季節の夜。今の気持ちを留めたくて素直な気分を残しておきます。

「松韻ー劉生の頃ー」の中に、春の南風の日の写真があるのを思い出し、海鳴りを聞きながら眺めています。


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2016年04月02日

故郷の桜、芦屋の桜。

桜前線が関東や関西を彩る週末。

このタイミングで帰郷できないので、昨年の早春に出版した写真集「芦屋桜」をめくっていたら、実家の母から携帯で撮った家の前の並木の夜桜の写真が送られてきました。このタイミング。グッときます。

この写真集について少し振り返ると、阪神淡路大震災から10年の節目に、被災者の目線で震災前後の芦屋を撮り続けた写真集「一年後の桜」を出版。そのテレビ取材が2006年にありました。内容は、その後の桜をテーマに撮り歩くものだったのですが、それをきっかけに桜樹に誘われるままに故郷の町をくまなく歩くという幸せな撮影を毎年続けることにしました。

震災から20年の節目に、芦屋の変化を見守っている桜にメッセージを託し形にしたいと思って、ご縁のあった出版社ブックエンドの藤元由紀子さんに見てもらったらその場で出版が決定。ブックデザインは吉野愛さんで、撮影者の想いをギュッと掴んでさらに魅力を発散してくださるようなエディトリアル。製版は僕の暗室ワークの全てを見抜かれる鋭い眼差しを持った日本写真印刷の中江一夫さん。そして解説文は、ずっと僕の写真を見続けてくださっている元芦屋市立美術博物館の学芸課長で甲南女子大学教授の河崎晃一さん。

昨年開催された、芦屋市立美術博物館の小企画展「光の空ー阪神淡路大震災から20年ー芦屋」に、学芸員の大槻晃実さんのご厚意で「一年後の桜」と一緒に「芦屋桜」も並べていただき、とても良い節目にしていただきました。

時々は地上に顔を出して”光の空”を眺めてきましたが、常に地下に潜るかのように、長いトンネルの中にいるような苦しく感じることも多い作家活動。しかし、自分の世界観を撮り続けなければ写真家にあらず。自分の今の気持ちを表現する喜びを維持して、これからもコツコツと続けたいと心に期する桜の日です。

写真集の帯に抜粋された僕の文章です。

目の前に佇む
桜を撮影すると、
次々と
桜たちに招かれ、
町の隅々まで
巡り続ける。

こうして
生まれ育った
町との絆を
確かめながら、
僕は
桜の風景を
撮る。

こちらはFacebook「芦屋桜」のページです。よかったら「いいね!」してくださいね。

作品は、僕のウェブサイトでダイジェストですがご覧いただけます。
「 一年後の桜」のページ
「芦屋桜」のページ

いずれもamazonで購入できます。お気に召したら、よろしくお願い致します!

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写真集「芦屋桜」より

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2016年03月25日

芦屋の春の風物詩、くぎ煮は母の味。

実家から宅急便が届いた。開封するといかなごのくぎ煮。

明石海峡で揉まれて獲れる新鮮ないかなごを阪神間や淡路島の家庭では調理してご近所に振る舞う。

須磨で生まれ育った母も、毎年この季節になるとガッツリ仕入れてくる。醤油、砂糖、生姜で煮詰めると折れた釘のようになる。子どもの頃から甘い味と香りが大好きだった。

これが春の風物だと理解したのは、たぶん、芦屋を離れて暮らしてからだったし、阪神間の家庭料理だと知ったのはつい最近のこと。年齢のせいか以前より増して郷土愛が深まったからだと思う。

何より、父が他界してから、実家で一人過ごす母への想いが、この気持ちをより強いものにしている。元気でいる母からの季節の便りだし、毎年毎年つくり続けてきた母への感謝の気持ちが深まることの幸せに他ならない。

いつまでも母のくぎ煮を食べたい。

ちょっと調べてみた。

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いかなご
スズキ目イカナゴ科
Japanese sand lance

明石海峡周辺では、いかなごの稚魚を新子(シンコ)成魚を古背(フルセ)といい、関東では、小女子(コウナゴ)、宮城では、女郎人(メロウド)、九州方面ではカナキなど、色々な呼び名がある。
いかなごの由来は、何の魚の子か判らなかったことから、「いかなる魚の子なりや」の意味とも言われている。

明石・淡路近海では、12月から1月頃にキレイな底砂に産卵。くぎ煮に使用されるいかなごの漁の解禁は2月下旬から3月上旬。兵庫県立水産技術センターが試験引きを行い稚魚の成育などの調査結果をもとに毎年解禁日が決められる。
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(くぎ煮.jpより)

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2016年02月14日

熊楠への旅

何年振りだろう、、、学生時代にはバイクにシュラフをくくり付けて走った真夏の国道42号線。砂浜がなくなった芦屋から想う南紀は陸続きの異郷の南国だった。世界に名を馳せながらも、後半生はその地に留まり生態系の宇宙を彷徨った熊楠。

僕は、気候変動、森林問題、生物多様性、減災防災、SDGsとテーマを拡充しながら歩んできたが、南三陸の人々との出会いが大きなキッカケとなり、ここに来て言葉や概念に捉われずに地に足の着いた日本らしい自然共生文化を伝えるにはどうしたらいいかと考えるようになってきた。

そこで改めて熊楠に思い至る。2017年に生誕150年の節目を迎える。博物学者、知の巨人としての熊楠を俯瞰することは並大抵ではないが、日本のエコロジー先駆者としての側面を追いかけることであれば、まさに本領であるCEPA(コミュニケーション、教育、普及啓発)ではないかと白浜に移住した盟友の水野雅弘さんと思い至ったのである。

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南方熊楠顕彰館の生誕150年ロゴ

そんなタイミングで、白浜会館で開催された「吉野熊野国立公園指定80周年・拡張記念式典」を水野さんがプロデュースすることになり、後半に組まれた「つなげよう支えよう森里川海プロジェクト」でパネルディスカッションのコーディネーターに声をかけてくれ2月13日に開催。

「森」「里」「川」「海」のフィールドをつなぐのを「教育」と「水」をテーマとし参集したパネルは素敵な方々だ。

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パネルディスカッションのリーフレット

奈良教育大教授の松井淳さんの「森」は、紀伊半島の三大流域、紀ノ川、熊野川、宮川の水源である大台大峰は危機的状況にある話から始まり、三重県速水林業代表の速水亨さんの「里」は、森川海へ人為的影響を与える里の管理や森は光の管理ということを哲学と科学で解き明かす話があり、川上村森と水の源流館の木村正邦さんの「川」は、源流と下流域の交流による流域俯瞰の世代を越えた活動の話。

これら、よしくま(吉野熊野)の山々に想いを馳せる話から視点を変えて、和歌山南漁協組合長の榎本さんの「海」は、森里川海のつながりは恵みを与えてくれるだけではなく、汚染や開発という負の影響を海に与えている事実に目を向ける話に展開し、大杉谷自然学校校長の大西かおりさんの「教育」は、自然と人をつなぎ、高齢者から子どもへ世代をつなぐという心に沁みる話で、最後に自然写真家の内山りゅうさんの「水」は資源であり、世界は水を求めて争いつつあるが、和歌山は水が豊かで美しいという話へと続いた。

僕には、大きな紀伊半島に流域による自然の地図が浮かび上がり、この豊かな半島の自然資本を守って使い続ける知恵が、熊楠のDNAのごとく地域から湧き上がっているように感じた。

登壇者の発言を借りると、「地域に足を運び接点をつくり(内山さん)」「自然体験をしてアタマを良くして(大西さん)」「大事に取り組み(榎本さん)」「川を通じてつながり(木村さん)」「創造力を持って見えないつながりを感じ(速水さん)」「大台大峰を守る(松井さん)」ことで紀伊半島は未来に続く。となる。

このコーディネイト体験によりグッとリアリティを帯び、夜の懇親会では真砂田辺市長、井澗白浜市長と懇談、翌2月14日に南方熊楠記念館の谷脇館長ともお会いした。

そして、エコロジスト熊楠の足跡を感じるために、水野さんと共に彼が残した継桜王子の神社林である野中の一方杉に会いに行った。明治末の神社合祀令による伐採を免れた数少ない巨樹の佇まい。

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盟友の水野雅弘さん

熊楠の想いは、このように生きた形で熊野に点在している。これを巡るための仕掛けを多くの方々と考え形にするための構想をモワモワと妄想し始めた。

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継桜王子の神社林である野中の一方杉





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2016年01月17日

阪神淡路大震災から21年

タンスの下敷きになった痛みを忘れてしまっているように感じます。

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芦屋霊園からの眺め

震災から10年後の秋に出版した、写真集「一年後の桜」の作品を抜粋して写真家のウェブサイトにアップしました。写真集に記載したエッセイも少し追記しました。この写真集の出版が、僕の心の復興の証です。お時間のある時に是非ご覧くださいね。お気に召したら写真集も買ってもらえたら嬉しいです。

この出版からも既に10年が経ちました。僕自身、タンスの下敷きになったために、被災者として思い悩むばかりで、人の役に立つことを全く考える余裕がありませんでした。

東北も5年の節目。被害の大きさが比べものになりませんが、一人ひとりの心の復興はもしかしたら近い歩みがあるのかもしれないと思って、これからも自分の体験を活かして世のため人のためになれるなら、南三陸町を始め、ご縁のできた人の元へ、足を運びたいと思っています。

今年だから言えるような気がします。311の直後、被災地に足を向けることができませんでした。それは自分の震災体験がマイナスに作用したからでした。外から来る人への恐怖心からです。ご家族が亡くなって遺体安置所に何とか運んで自宅に戻ったら、貴金属が全てなかったという信じがたい火事場泥棒の話や、僕の実家の庭を見知らぬ人がウロチョロ歩き回っているので「何をしているのですか?」と家から出て声を上げると、蜘蛛の子を散らすように走り去るという、自分の目でも考えられない光景を見て、祖父祖母を始めとする家族を守ることを第一に考えて行動していました。そんなことがほんの一部の心無い人の行動だと思えるようになるのにずいぶんと時間がかかりました。まさに非常事態だったように思います。

東北沿岸部で被災した方々が、支援者に対してどう考えるのだろうと思い悩んでしまって足を向けられない代わりに、東京でレスキュー組織の広報サポートをしたり、東北大学の「グリーン復興プロジェクト」の運営サポートをし始めました。いま、結果的に思うことは、「自分のスキルを活かして世のため人のためになる」ことであれば、支援の形は多様だし、時期は問われないし、くよくよ考えることではなかったということです。

しかし、これは僕が一人で乗り越えたのではなくて、南三陸町の佐藤太一くんとの出会いがとっても大きかった。彼との出会いは僕の中では革新でした。人から求められる喜びを教えてくれました。

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with 佐藤太一くん

そして鈴木卓也さん、小野寺邦夫さんという友も得ました。TEDxTohoku2013で同じスピーカーとして登壇した山内明美さんや吉川由美さんとのご縁から、南三陸町の多くのキーパーソンと繋いでいただいたことで「山さ、ございん」プロジェクトを立ち上げることになって、自分のスキルを活かして世のため人のためになる」ということを実体験でき、「自分の命の使い方」ということを考えるようになりました。

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with 鈴木卓也さん

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with 小野寺邦夫さん

そして他にも印象的な大切な友ができました。

小泉の阿部正人さん。彼の故郷への素直な想いに心を動かされて、巨大防潮堤の複雑な問題を、何とか自分ごととして考えられるように、東北大学のプロジェクトメンバーのエクスカーションを実施して施策アイデアを出してみました。実現できるほどの余力がなく今日に至ってしまっていますが、毎夏一緒に小泉で波乗りをして、自分の中の火を消さないよう、何か気づきを得られるように行動しています。

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with 阿部正人さん

閖上浜の大橋信彦さん。津波の前から松林で次世代に海岸林の大切さを伝えていた人生の先輩です。いま孤軍奮闘で走っているので、せめて手伝えることがないかと思って、僕がアドバイザーを務めているNPO法人湘南スタイルのメンバーで、僕のウェブサイトも制作してくれた市川靖洋、歩夫妻にお願いして、大橋さんのウェブサイト「yuriagehama.com」を制作してもらいました。これからも語り合っていきたいと思っています。

北海道の鈴木玲さん。岩手から福島までの東北沿岸の海岸植生の回復を願う熱き男です。彼の活動母体である「北の里浜 花のかけはしネットワーク(はまひるがおネット)」のロゴマークを、やはり市川夫妻にお願いして制作しました。僕が出会った中で、彼ほど「自分の命を使い切る」想いで走っている男を知りません。今は病院でメンテナス中ですが、回復すればエンジン全開で走ることでしょう。巻き込まれることを楽しみにしています。さらに突っ走れるようにパワーを注入し返してあげたいと思います。

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with 大橋信彦さん、鈴木玲さん

僕のこの体験は、災害大国日本に生きる者の宿命だと思っています。

今は、南三陸町の産業振興課長の高橋一清さんを始め多くの方とも想いを共有して、町民の視点と自治体の視点を行ったり来たりしながら、本当の意味で「世のため人のためになる」「自分の命の使い方」を模索したいと思っています。

阪神淡路大震災から21年。有難いことに、僕はまだまだ成長の途上にいます。
posted by 川廷昌弘 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月20日

グリーン復興会議、次なるステージへ!

今日は、東北大学での「グリーン復興」会議で非常に充実した議論ができた。結果から言うと、「グリーン復興の知恵」をコンテンツ化する計画を今年度から着手することになった。この会議体で発表され共有された多くの事例に対して有志による取材チームを構成し編集していく。

東北の明日、日本の将来、そしてアジア諸国の災害に苦しむ地域の将来に、少しでも役立つツールを目指してみようと、来年以降の集まる機会も、取材&編集作業の進捗に合わせて2回の予定となった。その議論の経緯と詳細を以下に記してみる。


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東北大学の「海と田んぼからのグリーン復興(通称:うみたん)」会議。2011年4月に立ち上がったこの会議も今回で22回目の開催。来年の3月で5年の節目を迎えるにあたって、今日は「グリーン復興」とは何なのか?をこれまで会議で共有した78団体、54活動事例を振り返り、2020年のオリンピックパラリンピックや、2021年の10年の節目に何が出来ているのか考えることにもなった。

これまで取り組んできた内容は、エコツーリズム、海浜植生の回復、第一次産業の新たな一歩、巨大防潮堤、コミュニティ再生、自治運営そのものまで、全て現場でのアクションであり、地域住民が主役であり、それをどのように関わって、地域の自然を大切にした町づくりを進めることができるのかを考えるプロジェクトと言える。

プロジェクトのリーダーである中静透東北大学教授は、これまでの5年を振り返り何らかのカタチで残し、今後を展望できたらと考えており、今日は代表的な事例の「東北沿岸部の海浜植生の再生」「浦戸グリーン復興プロジェクト」の発表と今後のプロジェクトを議論する進行案を組んだ。

後半の議論から記すと、事務局の岩渕翼くんからこれまでの参加団体と事例を紹介し、今後をどのように考えていくのかの口火を切ってもらって、中静さんから今後を考やすくするため論点を整理していただいた。

中静さんの冒頭、初心に戻るために振り返った2011年5月22日に環境省のイベントで行った「グリーン復興宣言」は懐かしくさえ感じるものだったが、「主な活動目標」を良く読むと現在を見抜いたかのような記述が眼に飛び込んできた。

抜粋すると、
===
1.生態系の機能を活用した災害のリスクを和らげる土地利用
■沿岸の水田復元、湿地の力で農地の地力を回復。復元が難しいところは、新たな自然再生の場(干潟、海岸湿地)としての利用。
■オフセット、税制優遇制度(保全地役権等)、保険など災害を緩和する土地利用に関する資金メカニズム。

2.流域全体の生態系からの恵みを低下させない防災・造成の配慮
■海の自然の保全と良質な水源確保のため、適切な森林管理や土砂流出の少ない土地開発。
■海の生物資源や、生物の移動に配慮した建造物(鉄道・道路)を作る。浸水の流れを緩和し自然と調和する建造物の工夫。

3.生態系とその回復力を活かした、持続可能な営みの創造
■地域の農林水産業、観光、教育計画を構想する際、地元文化と生態系の回復力を取り入れて営みを考え共有し合意形成を図る。生態系からもたらされる景観や、郷土の持つ文化的な価値を積極的に高める。
■バイオマスエネルギー、小水力など、小規模な自然エネルギーを利用し、集落のエネルギー自律性を高める。
■東北の豊かな食文化・地域資源を通して、復興と生物多様性の両方を支える他地域からの長期購買予約や投資などの、安定的な資金メカニズムをつくる。
===

まるで、南三陸で町民の皆さんや町役場の皆さんと共有して進めている活動のテキストのようで、被災直後の視察をした中静透教授、河田雅圭教授、占部城太郎教授は、これらの事をこの段階で文字にしていたことの驚き。少し冷静に考えれば極めて基本的な事なのかも知れないが、まさに慧眼。ちなみに僕は、写真家として町を俯瞰して視点を深めて安定させて絞り込み、皆さんとの交流を深めながら考えを整理して、ようやくこの内容に追いついて進めている状態。

中静さんの話しを続けると、このプロジェクトの特徴的な成果として、
モニタリングの東北地方太平洋沿岸地域自然環境調査しおかぜ自然環境ログ
企業連携の東北グリーン復興事業者パートナーシップ 
などの展開も意義深い成果とした上で、これまでの復興の方向性と状況、各事例の進展、プロジェクトの役割、実際の活動に対する助言、行政などに対する発信、情報交換を行ってきた実態から5年間の総括を行い、今後の活動のあり方について整理。

1、発信の方法と形態
2、今後の活動のあり方
3、資金

ここから僕が議論を進行し、参加者から本当に活発に意見を出してもらった。それをボードに書き留めながら、議論を整え方向性を探りつつ、感じつつある出口に向けて議論を流し込んでいったのだが、「発信の方法と形態」について丁寧に時間を割いた。というのも、もしかしたらこのプロセスがプロジェクトの軸になるのではないかと議論をしながら感じたからである。一般に、「グリーン復興」という言葉は馴染みにくいので「町づくり」といったほうが受け入れられるという言葉の問題から、媒体社と連載など企画連携して成果物を作る、学術的な報告書形式にする、一般に向けたビジュアル書籍にするなどの形態のイメージや、読み手は何を期待してこのどのように活かすものを作りたいのかというアウトカム(具体的な成果)をイメージすることまで、多様な議論ができた。その結果、

1、出版物として残す
2、このプロジェクトで共有された事例を活用する

という前提のもと、

ターゲットは、
1、東北で今もこれからも活動に取り組む人
2、来たるべき災害へ備えて活動している人
3、沿岸部に限らない社会課題を抱えた地域の人
4、海外の被災地などで活動する人

形態は、

1、自治体職員や研究者向けのようなドキュメント
2、一般に読みやすい内容に加工した書籍

の2方向が浮かんできたところで、上田壮一さんから参考事例を踏まえた発言あった。

1、震災イツモノート 
2、タイムラインマッピングプロジェクト

その結果、「グリーン復興の知恵」をこの2つの手法を参考にコンテンツ化するという実像が見え、問いかけるメッセージも以下のように整理できた。

1、地域の自然を防災・減災に活かしませんか?
2、地域の自然を活かした復興をしませんか?

そして、「グリーン復興」のロールモデルを「南三陸町FSC、ASC認証を活かした町づくり」と「浦戸グリーン復興プロジェクト」とし、それぞれ取材しながらコンテンツの中身を具体化する。

資金に関しては、基本は東北大学で調整するが、事務局をサポートするCEPAジャパンなど参加団体も協力することとし、ロールモデルは今年度の事業として着手。来年度に78団体、54事例の中から取材に応じてもらえる事例は基本的にすべて実施する計画とした。

早速、取材チームを構成、今井麻希子さんをリーダーに、上田壮一さん、服部徹さん、岩渕翼くん、岸上祐子さん、僕が、中静先生達と連携を図って動く。

そして、来年の活動そのものは、この事業を軸にして役割に応じた会議の開催という方向が浮かんできた。

2016年前半 活動報告の共有+出版物の目次作りを目的としたワークショップ
2016年後半 出版物のお披露目会

また来年9月にハワイで開催される国際自然保護連合の世界自然保護会議と、12月にメキシコで開催される生物多様性条約締約国会議を見据える。

以上の内容を参加者の承認を得て議論を終えた。


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他に、今井麻希子さんからは国連防災会議で採択された「仙台行動枠組」の中で、グリーン復興を実体化させるべくという呼びかけもあり、「生物多様性」「生態系」「気候変動への適応」の3つのキーワードの入った文章を引用元として、コラムの付記をしてもらえるよう検討してもらうことになった。

===
仙台行動枠組
I. 前文
兵庫行動枠組:教訓、確認されたギャップ、今後の課題
5. 人、コミュニティ、国家、その暮らし、健康、文化遺産、社会経済的資産、そして「生態系」をより効果的に守るために、災害リスクを予測し、そのために計画を立て、そして削減すること、それによってそれぞれの強靭性を高めることが、緊急かつ重要である

VI. 国際協力とグローバルパートナーシップ
一般的考慮事項
実施方法
(d) 貧困削減、持続可能な開発、天然資源管理、環境、都市開発及び「気候変動への適応」に関連した、各セクター内やセクター横断的な多国間及び二国間の開発援助プログラムに、適宜、災害リスク削減の各取組を統合する。

優先行動2:災害リスク管理のための災害リスク・ガバナンスの強化
世界レベル及び地域レベル
28. この達成のために重要な行動は以下のとおりである:気候変動、「生物多様性」、持続可能な開発、貧困撲滅、環境、農業、保健、食料栄養など、災害リスク削減に関係する施策の実施と調和のため、地球規模・地域的な仕組みや機関の協働を促進する
===

また、残念ながら療養で欠席となった北海道の鈴木玲さんの「北の里浜 花のかけはしネットワーク」としての岩手から宮城の各地沿岸部の海岸植生の精力的な再生活動「地域を超えた恊働による海浜植物の一時的避難と再導入」について。

名取市閖上の大橋信彦さんと僕とで報告し、特に今後の活動で巨大防潮堤の上にその地で採集した種子を入れた土嚢を設置し穏やかな連続性を生み出す計画は、今後の彼の活動の重要性と必要性を大いに感じるもので、多くの協賛企業を得られたらと切に願い、こちらの活動もサポートできたらと考えている。


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posted by 川廷昌弘 at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

鷲尾倫夫さんの写真展「巡歴の道オキナワII」を観た。

鷲尾倫夫さんの写真展「巡歴の道オキナワII」

鷲尾さんの眼を通して沖縄を俯瞰するような内容だった。前回の写真展では、鷲尾さんが沖縄に対して構えていたというのか、見る側に緊張を強く感じさせる内容だったように記憶している。それに比べて柔らかく感じた。最後から3枚目に少年の写真がある。この1枚でやはり優しいと感じ、2周目にこの写真を観た時に、この少年は鷲尾さんだと気がついた。というか鷲尾さんの意図を見抜いた。

鷲尾さんも沖縄に通いながら変化していったようだ。古老から話しを引き出すことから、語りを待つようになったという。それも眼を観ながら待つという。きっと年上からしたら人懐っこく見える鷲尾さんの瞳にひかれるように語るのだろうと想像する。

明るい時間に何度か通った洞窟に夕方向かったそうだ。どんどん日が暮れるにつれて空気が重くなって息苦しくなり、ついには立てなくなりうずくまったという。そんな沖縄の呪縛も体験し、鷲尾さんは何かの一線を越えられたのかもしれない。人々に向ける視線が鷲尾さんが本来持つ優しさに貫かれているのは、それが理由なのかもしれない。そしてあの少年を見つけるに至ったのかもしれない。

全体を通して時間が止まってしまったような、置き去りにされてしまったような沖縄が浮かんで来たり、余りあるチカラを抑圧され抱えたままの若者がいたり、誰にも言えない物語を心にしまって今を生きている古老があまりに自由でいたり、今の沖縄を鷲尾さんの本来の優しさとフォーカス時代に培ったスナイパーとしての鋭さとで表現されている。

通ううちに古老から「ご飯は食べたのか?」と聞かれるようになったという。「どれほどご馳走になったかわからないが、本当に美味いんだ。」という。それだけを聞くと地域に入っていく典型的な手法なのだが、それでも外の眼で沖縄という一つの地域を見つめる。沖縄には沖縄の時間があり、それを自由に撮っているだけだと鷲尾さんは言いたいのかもしれない。

黒人を撮った時に、相手が「何故撮る?」と迫ってきたらしい。その時に、あまりにピュアでストレートで美しい写真家らしい言葉で鷲尾さんが返したら、スッと体の力を抜いて「オーケーだ」と言ったらしい。その言葉を僕はいただくが、ここには記さないようにしようと思う。僕だけが教えてもらった写真家の企業秘密のようなものだから。

鷲尾倫夫さん、2009年に僕が新宿ニコンサロンで個展を開催した時に出会って以来、お手紙をいただいたり、2013年の鷲尾さんの展示でも語り合い、淡々としたペースで親交させていただいている。恐れずにいうと、僕にとっては写真を見る眼を試される写真家の良き大先輩になっている。

2013年の鷲尾さんの展示のことを書いたブログはこちら。
2009年の鷲尾さんとの出会いを書いたブログはこちら。


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posted by 川廷昌弘 at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする