本宮に大竹哲夫さんという人が住んでいる。知の巨人である南方熊楠に魅せられて想いが募って熊野に移住し、自己表現を生業にしながら熊楠のメッセージを今に伝えている。
100年も前に、「自然生態系のエコロジー」は「社会システムもエコロジー」として共存させることで人間の「精神のエコロジー」も豊かに保てると言い、風景と空気は地域経済に豊かさをもたらすとも言った熊楠。これをとても判りやすく現代語訳して情報発信しているのが大竹さんだ。
大竹哲夫さん
9月に盟友の水野雅弘さんの紹介で大竹さんの講義を聞いて判りやすい話に共感。水野さんとは、動画をダウンロードしながら楽しめる、熊楠の縁の土地を訪ねるARマップを作ろうと動き始めたところだったのだが、なんと大竹さん、熊楠が熊野をガイドする本の原稿を書き上げようとしているとのこと!添える写真はあるのか聞いたら、これからだとのことだったので是非ご一緒したいとお願いした。
そして、この3連休を活用して第1回目の撮影と相成った。
4時半起きで、羽田空港7時25分発に乗って南紀白浜。予報は雨と曇り。雨の中を駐車場に移動し大竹さんの車に乗り込んで、最初の撮影ポイントである白良浜から眺める
熊野三所神社に着く頃には雨が上がり車を降りたら強い陽射し。
熊野三社神社
昭和天皇の御座船
ここには熊楠が昭和天皇にご進講をした時の御座船が安置されていたり、斉明天皇の腰掛け岩がご神体だったり開始早々ボルテージが上がる。熊楠の活動の起点ともなった
神楽神社や
日吉神社。突然の通り雨に参道が輝き写欲がそそられる。日本のナショナルトラスト運動の発祥の地となった
天神崎では熊楠の愛娘の文枝さんがこんなエピソードを言い残している。「今のうちになんとか県庁に働きかけ、天神崎海岸を保護地区に指定しなければ必ずゆくゆくは別荘用地として不動産業者に買収されることは当然起こり得ることと憂いて地元の人たちにもよびかけましたが、また南方先生の十八番が始まったと一笑に付されました。」(「父 南方熊楠を語る」日本エディタースクール出版部)熊楠の先見性が垣間見えると同時に、そんなことを家族を通して伝え聞くのは素敵だなと幸せな気持ちになる。それにしても大竹さん、その地のいかなる熊楠エピソードでも頭の中の引出しに入っているようだ。
天神崎にて
多くのシイで鬱蒼とする神林が残る
伊作田稲荷神社は、京都の伏見稲荷よりも歴史がありご神体を見ようとした者には天罰が下ったという逸話があり、怪しい顔つきで鎮座する狐の視線にドキッとするような雰囲気が漂う。赤いのぼり旗がはためく熊楠が守った神林がある
西八王子宮や白いのぼり旗が迫力の
八立稲神社。今年もこうして地域の人たちが集まって気持ちの良い笑顔で祭りの準備をしている。神社合祀で廃社された
出立王子にものぼり旗が立ち提灯が並び地域の人の信仰心に心打たれる。今の日本で一番大切な自分の住まう地域の記憶を残すこと。この地域にこうして祭りが残ったのも、神社合祀の名の元に行われた国政の戦争借金の返済目的と、自治体の私利私欲にまみれた政策方針への抵抗勢力となった、熊楠を始めとする地域の有識者たちの先見性と胆力。
西八王子宮
八立稲神社
伊作田稲荷神社
今は
高山寺で、主治医だった喜多幅武三郎や、牟婁新報社主の毛利柴庵たちの墓に囲まれるように熊楠の墓もあり、この世から離れても仲良く連れ添っている素敵な面々なのである。なんて羨ましい人生なんだろうと思いながら墓石に向き合った。ところで、年中山野を駆け巡った熊楠さん、広葉樹林にはとんでもない数のヤブ蚊が群生していて視界が塞がるのではと思うほど一斉に飛びかかってくるのを、どうやって避けて小さな小さな命を静かに観察できたのか教えてくださいと聞いてみたが、愚問じゃと一蹴されたのか風も吹かず反応はなかった。
高山寺
日没は、当時は皇太子だった昭和天皇に無位無冠の熊楠がご進講を行った
神島を、対岸の鳥の巣から眺めるという念願を叶えて終えた。熊楠によって今に生態系を残し、天然記念物に指定され立ち入りが制限されているため上陸は希望として胸に。島にはご進講のあとに建てられた碑に熊楠の歌が刻まれている。「一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでまし森ぞ」
神島
日没後、1時間に38mmという突然の豪雨の中を移動し、車から降りたら傘はいらずで、水野雅弘さんと合流し3人で田辺の味光路へ。水野さんが提案する「ジャパニーズ・エコロジー」を熱く語り合う時間。100年も前に、この地を中心にした南紀の自然資源を資本と考え、地域が自立した経済で生き抜くことを示唆し続けた熊楠。大竹さんや水野さんがそれをカタチにすることを、応援する役割を担いたいと気持ちが入った時間でもあった。
ジャパニーズ・エコロジーを語る夜
2日目の朝、目が覚めたら大竹さんが「やはり神島が見えますよ」と笑顔で窓を指さした。高いフロアにある部屋に投宿していたので、天気予報通り雨が降っていれば昭和天皇の気持ちになって写真が撮れると考えていたが、これも見事に叶った。
「雨にけふる神島を見て 紀伊の国が生みし南方熊楠を思ふ」
この歌は、33年前に出会った熊楠へのお返しとなるような歌を昭和37年に昭和天皇が詠んだもの。天皇が個人の名前を歌に託したのは唯一と言われている。大竹さんのウェブサイトでは時空を越えた二人のコミュニケーションと伝えている。
雨の中を内陸に向い上富田町の
八上神社へ。ここは中辺路にある王子。合祀で廃社されてしまったが地元の人たちの熱意で7年後に復社。鬱蒼とするスダシイの森に樹齢500年の杉が鳥居の横に立ち境内には西行の歌碑。熊楠はこの歌を手本に神島の石碑に刻まれた歌を書いたと言われている。続いて向かった
須佐神社。やはり熊楠が大切にした場所で、こんもりした神林の中に佇む。
須佐神社
次は海に向かい、熊野権現が本宮に落ち着く前に鎮座しようとしたが波の音が聞こえるために、1日で去ったという伝説に従って明治29年に建てられた
熊野神社へ。参道には桜が植えられ大正時代には桜の名所となり近隣から多数の人が訪れたと言われているが、戦後の食糧不足で伐採され再び桜の宮へと地元の人が植樹して守っているが、雨に濡れる今日では当時の賑わいは想像しにくい。近くには、合祀されたものの住民が交渉して復社した金比羅神社。江戸時代に作られた味わい深い狛犬が雨の中を静かに鎮座していた。
国道42号を一気にすさみ町に駆け抜け、周参見湾に浮かぶ
稲積島に到着。ここも熊楠が保全に協力した場所で今は暖地性植物群落として国の天然記念物に指定されている。この日はたまたま
周参見王子神社の秋祭りで下地地区の神輿が稲積島に向けて御仮屋に置かれていた。14時から再開するらしいとの事でお昼を食べながらしばし待っていると、時間を過ぎたあたりから集まり始め最後の集団に千鳥足の神主さん。ボチボチと神事が始まったが動くたびにフラフラして氏子さん達は大笑い。写真を撮っている人に話しかけたら、毎年この調子でみんなこれも楽しみにしているとのこと。祝詞も時々声になるが何を言っているのか言っていないのか。お祓いも左右に動くたびにフラフラし氏子さん達は大爆笑。何ともほのぼのとしたお祭りで笑い過ぎて涙を流しながら撮影。大竹さん曰く「氏子さん達が楽しそうにしていることが神様の楽しみでもあるのだと思う。」熊楠もこういった地域の人との交流を楽しんでいたのだろうな。
稲積島をバックに周参見王子神社の祭
とても清々しい気持ちで古座川へ。ここでは南紀熊野ジオパークガイドでエキスパートの神保圭志さんが待っていてくれた。古座川は祓い川とも呼ばれ、熊野特有の自然を神とした社のない古代神社というか無社殿が多い。まず訪れたのは島がご神体の
河内神社。心を込めて島を撮る。ここで車を止めて少し歩くと、少女伝説の少女峰の少し上流で、弘法大師伝説のある田んぼを抜けたあたりに月の瀬という開けた場所がある。ここは古座川に月影が映る絶景を楽しんだ場所。その対岸にあるのが無社殿の
祓の宮。大竹さんのお気に入りの場所で、グッとくる神聖なる場所。語り継がれる歴史。昔から人々に敬われ大切されてきた場所は、とても小さな土地でひなびた場所だが地力を異様に感じる。それにしても少し歩くたびに逸話のある場所が点在している恐るべし
古座川。
祓の宮
明治政府によって強行された神社合祀は、一町村に一社という基準に従い全国で20万社から7万社まで激減。三重県では90%の神社が合祀され、次いで和歌山県だったと言われ多くの地域の記憶が消滅した。この古座川流域では粘り強く抵抗した歴史があるという。熊楠がこの地を訪ねたのは合祀が始まる前だったようだが、地域の人々との交流があって熊楠の精神が活かされていたらと勝手な想像を楽む。
歴史から植生まで縦横無尽に語る神保さん。神保さんのポートレイトを撮って再会をお約束し、急ぎ車に戻り大急ぎで
一枚岩に向かう。日没ギリギリに到着し赤く染まる空を写す圧倒的な大きさの一枚岩を無事撮影。どんどん演技する空に従って表情を変える一枚岩。撮影の醍醐味を味わって印象深い一日を終えた。
神保圭志さん
古座川沿いの旅館でグッスリ休み快晴の朝。回船業で栄えた名残を、街並みや石垣に感じつつ歩く。鳥居も社殿もない貴重な無社殿の
神戸神社や、明治時代の青年会「互盟社」の建物などが点在。快晴で透明度が高い空気。多数の訪問先があるため先を急ぎつつ漁師町の印象も撮影しながら那智勝浦へ。
到着したのは
補陀落山寺。隣にはかなり古い社殿の
熊野三所大神社が大樹の深い影の中に神々しく朝日を浴びて佇む。この神社、
那智の浜のすぐ近くにあり、熊野詣が盛んだった頃は
浜の宮王子と呼ばれ、潮垢離を行って身を清めて那智の滝に向かったという。大竹さんのガイドでは、熊野は神仏習合の聖地であり神道や仏教や修験道が混然一体となっていた。明治の神仏分離や廃仏毀釈により神道化が進んだが、ここでは昔の神仏混合の名残が見れる場所。ここ補陀落山寺は補陀落渡海の地で、那智の浜から渡海船で捨身行の補陀落渡海した上人は、平安時代から江戸時代にかけて25人。補陀落渡海とは、30日分の食糧を積んで舟に乗り生きながらにして水葬されるような業。今は寺の裏に墓碑が静かに並ぶ。
補陀落渡海の渡海船
那智の浜
次は
那智の滝に向かう。滝そのものが神であり仏であるため飛瀧権現といわれる。権現とは仏が神の姿で現れるということだと大竹さん。途中2011年の水害で被災した爪痕が残る道を走り熊野古道の名所の一つである
大坂門はパス。ご神体である滝を凝視すると流れが逆転して龍が岩を昇るようにも見えて来た。
この滝の水源でもある那智の山中。熊楠はここで粘菌の研究に没頭していたが、この時期こそが熊楠にとって重要だった。孤独な生活で極限状態にあり、死も意識するほど精神は研ぎ澄まされ体外離脱なども体験して、森羅万象に想いを馳せエコロジーの思想を極めていったのだった。それには、ロンドン時代に出会いその後も友情を育んだ、真言僧の土宜法竜(どきほうりゅう)との便りの往来が重要な役割を果たしていたと言われている。
那智の滝
さて、さらに山を分け入り弘法大師が開いたと言われる
妙法山阿弥陀寺に向かう。弘法大師堂に心を奪われたが、ここは誰もいないのに鐘が鳴る死者の霊魂が詣でる地であり、日本最初の焼身往生の地でもあり、熊野古道最大の難所の「死出の山路」の入り口で死者の霊に会えるとも言われ、女人禁制の高野の代わりに多くの女性が訪れた女人高野でもある。
妙法山阿弥陀寺の大師堂
霊魂が彷徨う山から補陀落の海まで、熊楠も超感覚的知覚現象を体験し、那智は海の果てに向いた聖地としての地力を強く感じる。
様々な情報と地力を受けてヘトヘトとなりながら新宮に向う。
神倉神社の石段は、源頼朝が寄進したと言われる貴重な鎌倉時代からの作り付けのままであまりに急な傾斜に足がすくみ、ご神体のゴトビキ岩は地元でヒキガエルの意味。次に訪ねた
渡御前社は、神武天皇の仮の宮だった場所だと言われ、それを石垣に見出そうと撮影。いずれも熊野速玉大社に関わりのある社とされ、熊野の信仰、歴史がしっかりと土地に根を下ろしていることをしみじみと感じる。さて、今回最後の訪問地である
熊野速玉大社。鮮やかな朱色に柔らかな気持ちになりしっかりと撮影をし終えた。
神倉神社の石段
渡御前社
熊楠をガイドに熊野を旅する。そもそも地力があり様々な歴史が刻まれる熊野。そこで森羅万象に想いを馳せ日本本来のエコロジーの思想を極めていった熊楠。あまりの情報量に圧倒された3日間。熊楠に魅せられこの地に移り住んでネットを駆使して
「み熊野ネット」や
「熊楠のキャラメル箱」や
Twitter「南方熊楠」などで情報を発信する大竹哲夫さん。そして熊野の地に憧れ移り住み
映像メディアを駆使して発信する水野雅弘さん。いずれもが熊楠の後継者となって、この地から「自然生態系のエコロジー」「社会共生のエコロジー」「精神を支えるエコロジー」この3つのエコロジーをJapanese Ecologyとしてすでに発信しているように感じる。
あらゆる場所で様々な事があり遅れ遅れになるのが常の僕の撮影だが、大竹哲夫さんが立てた撮影計画をなんと無事終了。新宮駅からの特急南紀に間にあった。これはきっと、めまぐるしく変化する天候に素直に従いつつ執拗に粘る僕を、にこやかに見守ってくれた大竹さんとの相性の良さのなせる技かなと感じる。大竹さんから車中でと駅前の除福寿司を差し入れてもらい出発。ふと駅舎を見ると手を振る大竹さん。発車までしばらく時間があったのに待っていてくれた事に感激して大きく手を振って再会を約束。
新宮駅にて
※全ての訪問先の史跡や場所のテキストリンクは大竹哲夫さんの「み熊野ネット」です。より詳しく知りたい方は是非クリックしてみてください。
次回は11月。「熊楠を思ふ」旅を続けます。