2019年04月07日

週末は芦屋桜。花見帰郷。

たまたま週末予定がなく、故郷の桜が満開になりそうだったので、久しぶりに桜を撮り歩こうと考え帰郷した。

写真集にまとめた「一年後の桜」「芦屋桜」はハッセルにモノクロフィルムを入れて撮影に没頭してきたけど、愛用のフィルムが製造販売中止となり、これからの作品づくりをどうするかを思案している最中だったので、気楽に撮っていろいろ試してみようと考え、デジタル一眼でカラースクエアで撮ることにした。スクエアの画角はウエストレベルのビューファインダーで覗くことになれていて、モニターで見るのは慣れず最後までしっくりこなかったけど、こんな表現もありかなと感じる2日間だった。

やはり「芦屋桜」で撮った桜が気になり消息を確かめるために撮ったものも多かったけど、桜を撮り歩くことを口実に故郷をくまなく歩き自分を確かめる時間でもあったように思う。桜に誘われるままに歩き回った2日間。

桜は故郷で見るに限ると感じた。桜が忘れてはいけないことを思い出させてくれる気がしたのだ。歩く街並みは今だけど、自分自身は過去に帰っていく感覚。久しぶりに会えた旧友夫妻との人生を語り合う夜。母との墓参りは墓前で語り合う午後。自分のルーツに立ち返り、これからを考える時間を桜が仕立ててくれた。

母と眺めた芦屋霊園の桜は天国の風景だったように感じた。彼岸と違い誰もいない敷地で、先人たちが静かに花見をしているところにおじゃまをしているような空気感だった。

この季節はできるだけ芦屋で過ごしたい。そして次なる芦屋を撮る作品を楽しみながら模索してみたいと思う。

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芦屋川の定番風景

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震災で被災した桜も今は伸び伸び

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実家の前は桜の観光地となっていたので夜桜を楽しんだ

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芦屋霊園の桜




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2019年03月01日

病室に満開の芦屋桜

芦屋の病室で一人の女性が人生を終えられた。その手元には僕の写真集「芦屋桜」があったと聞かされた。いつも特定のページを開いていたそうで、まるでそのページを見ながら天国に行かれたようだったという。突然にそのような話を聞いて、驚くと同時に、写真家冥利に尽きると正直に思った。

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その女性は長く寝たきりで、お見舞いに来られたご友人からこの写真集を受け取られたそうだ。どんな気持ちで僕の写真集をめくってくださっていたのだろう。どんな気持ちでそのページを開いてくださっていたのだろう。

この写真集「芦屋桜」は、阪神淡路大震災から20年目に出版したもので、僕にとってはひとつの大きな節目として出したものだった。

1991年に関西支社に転勤し、久しぶりに実家に戻ったことをきかっけに自分探しのために少年の町である芦屋を撮り始めた。そして1995年の阪神淡路大震災でタンスの下敷きになり、破壊された少年の町を人から怒鳴られながら撮り歩き、一年後に咲く桜を見上げたことで自分は生かされたんだと気づき写真を撮り続け、震災から10年後に「一年後の桜」を出版した。

この写真集をテーマに、朝日放送の報道の方から取材をしたいと連絡があり、桜を撮る僕に1日密着して夕方のニュース枠で特集として放送してくれた。久しぶりに桜が満開の芦屋の町を歩いてみて、郷土愛をこの風景で表現してみたいと思って始めたシリーズが「芦屋桜」だ。毎年3月の下旬が近づくと、実家の母に開花状況を電話で聞いたりして、故郷との絆を実感しながら帰省する週末を絞っていき撮影を始めて数年が経った。

ある時ふと、震災から20年の節目である2015年が近づいていることに気づいた。東北の復興支援にも足を運びながら、このシリーズを撮りまとめることで、町を見る被災者の目の変遷や、今は先が見えない被災地の人への応援も表現できるのではないかと考え、この節目に写真集にして残したいと考えた。

町は生まれ変わり若返ったけど、桜は年老いていった故郷。年老いた人が新しい町を横切れば、震災を知らない子どもが走り抜けていく。こうして、町は破壊と再生を繰り返しながら人の暮らしを刻んでいる。そんな芦屋を、桜を通して力まずに自然体で淡々と編んでみたい。そして、桜を愛する女性がフッと胸に抱いてくれるような体裁の写真集にしたい。女性の出版社の社長さんに女性のデザイナー。お二人にそんな依頼をした。「芦屋桜」とは、そんな写真集なのだ。

今日は3月1日。気候変動が進み、日本の桜も3月に駆け始めるようになって久しい。今年の芦屋桜はどの週末が満開なんだろう。久しぶりに満開の芦屋を撮り歩きたいと思う。

さて、この話を伝えてくださったのは、全く別件でお会いする約束をしていた全国コミュニティ財団協会の深尾昌峰さん。深尾さんは「芦屋桜」の表紙にある「川廷昌弘」と、打ち合わせをする「川廷昌弘」とがつながるまでの不思議な体験を語ってくださった。全てを聞いた僕は会議室で不覚にも涙腺が崩壊寸前だった。写真家として死ぬ覚悟がまたひとつできた。写真の道を信じて良かった。ご縁に感謝。

そして、深尾さんからのミッションで、女性が持っていた写真集にサインをさせてもらった。
「この写真集でお花見をしていただき、ありがとうございます。 川廷昌弘」

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深尾昌峰さんと写真集と

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2019年02月13日

真冬の桜 河ア晃一さんへ

芦屋の現代作家で甲南女子大学教授の河ア晃一さんが亡くなった。

膵頭部ガン、67歳。しばらくご無沙汰をしていたので、あまりに突然の訃報だった。喪主のご長男から、お亡くなりになった2月11日の夕方メールをいただき言葉を失った。

河アさんが、芦屋市立美術博物館の初代の学芸課長を務められている時に、生まれ故郷である芦屋を撮り始めたシリーズを一方的に持ち込んで、応接室で見ていただいた事からお付き合いが始まった。

2005年に出版した、僕の初めての写真集『一年後の桜』に寄せてくださった文章の冒頭にその時のことを書いてくださっている。

「川廷昌弘が尋ねてきたのは、94年の春だったと記憶する。その時『憧憬』のシリーズのファイルを見せてもらった。初対面。初めて見る作品に対してその時に感じたことは『これが彼の本来の持ち味なのだろうか』だった。ハッセルブラッドで写された芦屋の心象風景は。彼自身の歩んできた生活環境を辿ろうとしているかに思えた。『憧憬』には彼が幼い日から青年期を過ごした芦屋に思いをはせた『なごりのイメージ』があった。初めての席で最後に見せてもらった作品は『憧憬』とは全く別世界の洗練された南房総のカラー写真だった。彼の本来の持ち味はこちらの方にあるのではないかとさえ思った。なぜ彼は私にファイルを見せに来たのだろうか。数多くの写真家、評論家がいる中で、写真に関しては専門でない私に作品を見せに来たのには何か理由があったに違いない。芦屋に育った一人として、地元の美術博物館の一人として、まったくいきなりに知り合うこととなった。」

河アさんは、わかってくださっていた。僕が芦屋の生まれ育ちを、どのように表現するのかを探求したくて、芦屋の出身で作家活動もされている河アさんに半ば強引に見てもらったことを。さらっと撮れる洗練されたカラー作品ではなく、遠回りになるかもしれないけど、表現者として本質的な作品を創作しようとしていた僕の心理を。しっかり見抜いて受け止めてくださっていた。その温もりのような心というか、見守ってくださっている感じが、ファイルをめくる空気感から感じられたことを覚えている。

阪神淡路大震災で被災しタンスの下敷きになった。その夏、河アさんを訪ね、被災地となった芦屋を撮影した作品を持って行き、『一年後の桜』を撮りますと予告した。河アさんは少し考えて無言で何度も頷いてくださったことを覚えている。お互いに被災者であり、河アさんは美術品のレスキューなど活動を展開されていた頃だったと思う。

河アさんが寄せてくださった文章から再び引用する。

「『一年後の桜』というテーマを聞いた時、『そう言えば』と思ったのは被災者だけかも知れない。私たちには95年の桜の記憶がない。」

その後、芦屋の学芸員の方から聞いた話がある。その方も作家活動をしながら、稼ぎとして学芸員をされていた。河アさんが「川廷の生き方を見てごらん。激務の広告会社に勤務しながら故郷を撮って自分を見つめる作家活動をしている。表現者としての一つの生き方だよ。」と言っているから、僕に会いたかったと言ってくださった。僕自身は、表現者としの自信もなく、人生そのものを迷いながら自分を探し続けている状態だったので、褒めすぎと率直に思ったがとても嬉しく励みになった。生き方で言えば、学生時代はテニスで走り回って、広告会社に就職してから写真家を志した僕には、大学はラグビーで走り回っていたのに、学芸課長になって毎年のように大阪で個展を開催する現代作家として、ご自身を追求する生き方をしている河アさんこそがお手本だった。

このようにして、芦屋にルーツのある者同士として共感していただきながら、10年の歳月を見守ってもらえていた。文章はこのような形で締めくくっていただいている。

「あくまでもマイペースで、しかも継続的に撮り続けられた芦屋風景は、いつか歴史を刻む一コマとなるだろう。これからの川廷の作品に、今以上の求心力が生まれてきた時、ここに収められた作品群は、そのプロセスとしての意味を持ってくる。その第一歩が今、提示されたのである。」

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2014年8月3日 2冊目の写真集を相談した日

それからさらに10年の歳月が経ち、芦屋の2冊目の写真集を出版しようと考え、真っ先に河アさんに相談した。震災から20年の節目である2015年に出版した『芦屋桜』である。出版社は、河アさんが長年懇意にされ僕もお付き合いのある藤元由記子さんが経営するブックエンド。もちろん、河アさんに文章をお願いした。

「桜の姿を求めて芦屋の隅々を歩いた川廷が発見したのは、街を見る自身の眼である。」「桜を通じて故郷との結びつきを深めていく姿勢は、自身の仕事とオーバーラップしながら、川廷の写真表現に独自の世界を与えているといえるだろう。」

生き方のお手本でずっと前を走る河アさんから、20年の歳月を経て生き方が見えてきただろうとエールを送ってもらえた。自分の成長も同時に感じることができた。自分らしい写真家としての生き方だ。しかし、ようやく見えてきただけで、大きな成果を挙げているわけでもなければ、評価されたわけでもない。

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『一年後の桜』と『芦屋桜』

そして河アさんは逝ってしまった。この喪失感はとてつもなく大きい。見守ってもらえている勇気と、時々かけてもらえる声によって得られる確信。『芦屋桜』の出版から4年も経っていた。その間、お会いしていなかった。この間に河アさんは病に冒されていたとは知らなかった。僕は失礼極まりない押しかけ弟子だった。

東京での仕事を終えて汗だくになって新幹線に駆け込んだが、すっかり遅れてお通夜の会場に辿り着いた。会場から帰る人もいるが、とても多くの方が思い思いにグループになって語り合っている。きっと多くの人を励まし育てただろうし、多くの人に愛された人だったと思う。実業家で美術蒐集家でもあった山本發次郎のお孫さんという生い立ちを考えると、交流も多彩だったと思う。

僕は一人静かに手を合わせて亡骸にも対面した。言葉が思い浮かばなかった。部屋を出て並んだお花を眺めた。自分の名前があった。とても良い場所でお見送りをしている。たまたまだと思うがご遺族に感謝。言葉にならない想いが伝わったような場所に自分の名前があった。そこで、ようやく想いを言葉に出来そうな気がした。

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2019年2月13日

会場には、河アさんご自身の作品と「具体美術」の研究者として著わした書籍も置かれていた。僕は河アさんは現代作家として逝ったと勝手に思っている。僕も、僕らしい写真家としての生き方をして死にたい。だから、まだまだ自分を追い込んでいく。

ありがとうございました。ゆっくりおやすみください。そして、またいつかお話をさせてください。

河ア晃一様へ

川廷昌弘
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2019年01月17日

117に想う

阪神淡路大震災から24年。

これだけの歳月が経つと、自分の上に倒れてきたタンスの重みは、全く感じられなくなってしまった。「あの震災」と言っても「どこの?」と聞かれるようになってきた。

震災を知らない世代は20代となっている。そんな彼ら彼女らが、阪神淡路を知りたくて各地のボランティア参加で疑似体験を語るニュースが印象的だった。「ボラバスで非日常の被災地に足を運ぶが、帰宅すれば普通の生活のペースに戻ってしまう。」

当時のビデオカメラで撮られた映像を、アーカイブするのも20代だ。今ならスマホで簡単にとれるからこそ、映像アーカイブも彼らからすれば当たり前のこと。こうして当時の空気をなんとか感じようとしてくれる地元の若い世代に感動を覚えた。

天皇陛下のひまわりの歌に心打たれた。

震災で亡くなったはるかさんの自宅跡で、はるかさんが持っていたひまわりの種が芽を出し花を咲かせた。その種が震災10年の式典に参列された天皇陛下に贈られた。陛下は御所にその種を植えられ毎年成長を見守られてきたという。

贈られし ひまはりの種は生え揃ひ 葉を広げゆく 初夏の光に

象徴を模索され続ける陛下のにじみ出るような御心を深々と感じる。震災の日とは、その地に生を受けたものとして、原点に返ることなんだと教えられたように思う。初夏の光に向けて葉を伸ばすひまわりのように、生かされた命を精一杯使い切りたいと思う。

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芦屋霊園より市内をのぞむ(正月の墓参りの時に撮影)

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2018年09月17日

初めての屋久島 Yakushima Retreat

9月12日

何年も前から声をかけてもらっていた屋久島の本然庵。会社の先輩である中野民夫さんのリトリート拠点。会社に在籍されていた時は生物多様性を学ぶために一緒に動き、多くの知見とネットワークを共有していただいて大いに影響を受けた大切な先輩。

今回は中野民夫さん陽子さんご夫妻。中野さんのCIIS(カルフォルニア統合学研究所)大学院修士の先生だったパロマ・パベルさんとパートナーのリチャード・ペイジさん(愛称はクマさん)。中野さんの東工大の同僚である札野順さん、松崎由理さん。そして中野さんを慕い、ご本人たちも様々な活動の達人である素敵な女性たち。多田悦子さん、今堀洋子さん、松原明美さん、浦山絵里さん、栗原幸江さん。そこにパートナーの石本めぐみと一緒に参加させてもらった。

屋久島空港に到着し、まずは宮之浦にある環境文化村センターで屋久島の基本を学ぶ。最高峰は標高1936mの宮之浦岳で、年間平均気温8度の北海道から年間平均気温20度の屋久島までの日本の全ての気候が体感できる島。そして縄文杉に代表される時を刻み続ける命が育まれる島。奥が深い。

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小雨の屋久島空港

さて、お弁当を仕入れて春田浜海水浴場に向かい昼食。サンゴの岩礁にある大きなタイドプールが海水浴場。泳いでみると小さな熱帯魚の群れを見つけたり、屋久島の自然とのささやかなファーストコンタクトになった。天気も晴れ男ぶりはここでも大いに発揮。多分に多くの女性も晴れ女のようで、365日雨が降ると言われる屋久島で、滞在中に雨に降られることはなかった。

続いて、干潮時だけ入れる平内海中温泉に向かう。建物も何もない温泉。撮影禁止。かろうじての手ぬぐいを腰に巻いていたが、中野さんに誘われ温泉のすぐ横にあるタイドプールに向かうと、背後から牡蠣で切るぞ、とか切れたら後が大変だそ、という地元のおじさんの声。片手で手ぬぐいを持っていたがそう言われてはと、手ぬぐいを首に巻き両手を解放して岩場を歩いた。混浴で素っ裸。泳いで体を冷やしながら次々と寄せてくる波を楽しんでいたら、明らかに上げ潮で波が止まらなくなり急ぎ岩場に上がって温泉に浸るが、かなり海水が入り込んでいてぬるくなっていた。

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この先は撮影禁止

さて、本然庵。夕食をいただき片付けていたら星空がすごいという声。皆さんがシートを敷いて寝転がりながら天の川を眺めている横で、三脚を借りて息を殺してスローシャッターで撮り続けてみた。天の川が明るく見える南側と、モッチョム岳のシルエットを浮かび上がらせる北側と。星夜が迎えてくれた屋久島合宿初日。

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南の空に天の川を見上げる

その後、パロマさんのワークショップ。滞在中に、全員が10分で自分の「変革」と「エッジ」を語り質疑とパロマからのメッセージを受けるということになった。

9月13日

日の出前の5時半に起床。少し散歩して撮影。多くの方はヨガ。

今日はヤクスギランド。スタート前に全員が今の思いを一言&パロマからのメッセージ。150分コースをほぼ全員が歩くことに。

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千年杉の前で記念写真

案内図にある千年杉、ひげ長老、蛇紋杉、天柱杉、母子杉、仏陀杉はもちろん、名もない多くの巨木や切り株。圧倒的な被写体を撮影しては小走りで追いつき、先に出ては全員に抜かされ、なんとか屋久杉らしい写真を収めることができたように思う。しかし多くの時間で日差しが差し込みクリアでスッキリとした作品になってしまっているのが僕らしい。撮影した写真から立ち上がってくる細やかな時間という空気。

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ヤクスギランド

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仏陀杉の前でパロマさんと

本然庵への帰路、安房で窯を構える山下正行さんの埴生窯へ立ち寄る。本然庵の多くの食器はここの焼き物。山下さんに深いグリーンに仕上がっている器について聞いてみると、なんと窯の中にサンゴを入れて釉薬の代わりにしているという。その結果、青ともグリーンともつかない深い色に仕上がるという。土も屋久島の土だけだとサラサラしているので、周辺の島の土をブレンドしてこねているという。そして何よりも窯の周りには薪、薪、薪、薪だらけ。記憶が不確かなのだが確か3週間かけて3日間の薪を用意していると聞いた。全てが自然の恵み。思わず有難い授かりものだと感じ湯呑みを2つ購入。

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埴生窯の山下正行さん

さて今日は尾之間(おのあいだ)温泉。地元の人は町内会費を払っているので無料。来訪者は200円。浴槽の底は玉石。浴槽の周りに座り込み頭も体も洗い流す。温泉の温度は高いがぐっと癒される。「こんばんわ」と全員が挨拶。湯上りに脱衣所の古い写真をみていたら「いい湯だろう」と声をかけられ、「毎日入っているのですか?」「そうだなあほとんど毎日、夏より冬の方が温泉も温度が低くてゆっくり入れる。」「健康的でいいですね、羨ましいです。」

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尾之間温泉

今日はクタクタで写真の整理をしていたら激しい睡魔のままに眠ってしまった。

9月14日

5時半の日の出前に目覚ましもなく起床。中野さんが日の出を見に行こうと声をかけてくれ数人と出かける。とっておきの場所を教えてもらい撮影スタンバイ。モッチョム岳の稜線が海へと連なる雄大な風景に朝日が差し込む。まるで原始の風景。そんな風景の中、中野さんたちは朝日に向かって勤行。

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モッチョム岳の稜線が海へ

本然庵に戻って何人かはヨガ。僕は写真の整理。朝食後、本然庵のステージでパロマさんのワークショップ。予定をオーバーして語り合い。

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本然庵のステージ

今日は大川(おおこ)の滝に向かう。水量が多くダイナミックに落下した後はわずかな距離を川として流れ海に注ぐ水の姿を見ることができる場所。滝の前で思い思いに過ごし、浜に出てお弁当を食べて海や川で泳ぐ。クタクタになるまで過ごして戻る。

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大川の滝

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すぐ近くの浜

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島の周回道路の南側ではモンステラが自生していた

日没まで本然庵のステージでパロマさんのワークショップ。日没後におかずの買い出し。その合間に今日も尾之間温泉。夜はパロマご自身のストーリーを語る講演。

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本然庵の和室で熱唱

すぐ近くにお住まいの星川淳さんがゲスト参加されて感激。1997年に出版された「星の航海師」を読み、都市生活の自分には失われてしまっている人間の野生を、自然に添う現代の野生として教えられたと今になって思っている。それを星川さんにお伝えできたことは自分へのリマインドにもなり大きな出来事だった。

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感激の星川淳さん

今日もクタクタで11時ごろには睡魔に襲われるままに眠る。

9月15日

日の出前の5時半に自然と目が覚める。今日は一人で日の出撮影に出かける。とっておきの場所で構えていると中野さんがパロマさんや数人の人を連れて到着。昨日よりもドラマチックな朝日でダイナミックな原始の風景が目の前に広がる。その中を勤行する皆さんも撮影。

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モッチョム岳を仰ぐとっておきの場所で朝日に向かって勤行

今日は最終日のため汗だくになって大掃除。汗を流すために中野さんと素っ裸で本然庵の横を流れる川で泳ぐ。キンキンに冷たい川の水。しかし不思議と体の芯で暖かい体温を感じしばらく泳いでいられる。そしてステージでパロマさんのワークショップの仕上げ。戸締りをして空港に向かう。

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本然庵とモッチョム岳

我々二人は1泊延泊をするのでレンタカーを借りて空港から走り始める。行き先は白谷雲水峡。時間が限られていたので縄文杉に次ぐ樹齢3000年の弥生杉に会って戻ってきた。

平内のShizuku Galleryに向かう。ここで2人の指輪を作ってもらうためにジュエリー作家として活動している中村圭さんと会う。きっと思い出深い屋久島になると考えて事前にリサーチしておいた。このギャラリー、小さな納屋を中村圭さんとパートナーで画家の高田裕子さんが改築。2人のギャラリーが2部屋に分かれている素敵な空間。とっても理想的な移住生活をしているのが羨ましい。この平内は移住者が多い地域らしくとても伸び伸びと生活している感じが伺える。圭さんはサーファーで屋久島の波に馴染んでいるのも羨ましい。

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夢のようなShizuku Gallery

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中村圭さんと

日没となり圭さんに紹介してもらったボン・クラードに宿にチェックインしてから向かう。内装は屋久島の自杉。家具は全て自作。食事も屋久島牛が食べられる。島ではなんでも自分でできるようにならなきゃと若きUターンのオーナー。宿に戻ってシャワーを浴びて気持ちよくダウン。

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自杉の内装ボン・クラード

9月16日

今日は7時起床。8時に移動開始。西部林道を走って空港に向かい島一周となる。中間の河口でオーバーヘッドにブレイクして5人ほどで波乗りをしていた。立神あたりで遠く東シナ海の水平線を眺め雲の影が白く海面を照らすピカピカの風景に感動。

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西部林道から東シナ海をのぞむ

林道では等間隔で猿の群が座り込み車を全く恐れない。道沿いには鹿も多くいてここは彼らの土地であり人間は訪問者でしかないと実感する。口永良部島が浮かび噴煙がたなびく。永田地区に入り屋久島灯台に至る。点灯100年を越える味わい深い建築。

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屋久島灯台

屋久島の数少ない砂浜であるいなか浜に到着。とても綺麗な砂浜。日本一のウミガメの産卵地。アカウミガメ、アオウミガメ、マイタイ。昔多い時には一晩に何百匹も上陸したという。

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いなか浜

ランチはCafe Sea & Sun。美味しい玄米にカレー。そしてフレッシュジュース。オーナーの女性は種子島にも住んだことがあり、砂浜が多く住みやすい島だそうだ。一度行ってみたいと思う。屋久島の移住者は人口の40%。島の南の方が冬は1枚薄着で過ごせるようで移住者も多く、平内は移住者の方が半数を超えるらしい。

飛行機までの残り時間も少なくなったので急ぎ空港に走る。駐車場でレンタカーを返却。建物に入ると羽田行きが離陸した直後だった。生まれて初めて飛行機に乗り遅れてしまった。頭から時間を勘違いをしていた。次の便は満席で最終便に2席の空きがあった。これに合わせて鹿児島空港から東京行きを調べるとジェットスターの成田行きが取れたのでなんとか今日中に帰宅できることがわかり安心して空港近くの温泉で汗を流す。そのあと空港のレストランでトビウオ丼を食べて搭乗した。

屋久島の中で、自然と人、社会と人、人と人、そして自分と向き合うワークショップ合宿のようなリトリートと延泊。10分での自分語りでは、自分の弱みを自然と話せた。日本中の気候を感じられる島だから、何千年という時間も感じられる島だから、身の程を知り自分らしさに気持ちが向いたのだと思う。急に自宅の本棚を整理したくなった。海を眺める居心地のいいCafe Sea & Sunの本棚がとてもシンプルで深みを感じたので、僕を構成している要素をコンパクトに感じられる本棚にしたいと思った。

樹齢2610年の母子杉の前で中野民夫さんと
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2018年08月20日

「自然」という幻想

「自然」という幻想ー多自然ガーデニングによる新しい自然保護ーを読んだ。
あくまでも個人的な感想文として記します。

僕は、コミュニケーション会社に勤務する人間として、環境問題を地球温暖化から入門し、続いて生物多様性という概念を知り、それを俯瞰して人間の生活基盤でもある日本らしい自然共生社会への理解を普及啓発する活動に取り組んできた。それをベースにSDGsにも取り組んでいる。そんな活動の中で日本における外来種の基準となる時期を訪ねても周辺にいる人で明快に答えてくれる人はいなかった。

湘南に新居を建設する際に、猫の額程度の庭だけど高麗芝・浜木綿・黒松を植えたいと考えた。芝生は、実家の庭でおじいちゃんがいつも草抜きして、芝刈り機のガラガラという音が懐かしく、裸足でチクチクとした感触が嬉しくて遊んだ経験が忘れられない。浜木綿も実家にあり、最初に建てた鵠沼海岸の庭にその球根を植えたら成長してたくさんの球根ができたので、3代目となる苗を植えることがミッションと感じていた。そして、この地域の景観を支える黒松を我が家にも植えることで景観の連続性の一助になればと考えた。僕にとって原体験であり原風景であり記憶の庭の世界。そんな話をある人たちにしたら、芝生は外来種だからダメだ言われたことがある。

生物多様性という概念を伝える活動をしていると、日本では人の手がどこまでも入っていることに気づく。そして、ある時にこの活動のゴールは、目指すべき姿はなんだろうと当たり前のことに気づいた時に、多くの人が熱心に取り組む自然保護の話にゴールの姿が見えず、むしろ精神論に思えて、国や企業の助成金は何を目的にしているのか、とても責任が重いと改めて思い始めていた。

そんな出口の見えない状況の中で、僕に新しい考えを授けてくれた人が2人いる。一人は林業家の速水亨さん。「林業家は森とは言わず山という。山では魑魅魍魎が跋扈し八百万の神がおわす。生物多様性だけでなく万物多様性が育まれる。」生態系サービスを生業としている人の言葉には血と肉があり目的もゴールも明確だった。そしてもう一人が岸由二さん。慶応大学名誉教授だが、生涯を自分の生まれ育った流域を俯瞰して行動する人であり、その経験から生まれ出た「流域思考」という言葉は、自然共生社会を構築する都市インフラもデザインすることができるものだった。気候変動の適応策という言葉も後付けに聞こえるほど理にかなった思考だと感じた。お二人とも人間の営みそのものとして「自然」を語っている。僕には教科書だった。

そんなことを知ってから南三陸の人々に出会った。林業家、製材業、漁師、自然教育などを生業とする人たちは、生物多様性の保全は生業で実践する哲学者だった。地域にはそんな知恵が生業が当たり前に存在しているが、例えば2005年の国勢調査の数字で見ると15歳以上就業者数(6,151万人)の中で第一次産業従事者は315万人で5.1%と、都市生活者が圧倒的に多い今の日本社会で生業を通して自然を守ることを考えることは難しく、暮らしと自然、さらに自然保護活動はつながりにくいのは仕方がないようにも思っている。僕自身も曽祖父、祖父、父と4代目の都市生活者である。

さて、本題に入るが、岸由二さんが、小宮繁さんという方と翻訳した本が届いた。小宮さんはステージャの「10万年の未来地球史」という本を訳した人で個人的に気になっていた。読めば読むほどに痛快なほど腹落ちしていく。モヤモヤ感を吹き飛ばしてくれる大胆に断定的にストーリーは進んでいく。このスケール感、ダイナミズム、地球のサイクルで「自然」を語ってくれることで、ようやく理解が行き届く。

常に「自然」は変遷しており、どのような状況にも適応していく進化をしている。特にこの日本列島に住んできた先祖たちは身をもって知っていたはずだ。山や海が暴れて暮らしを脅かされ、「自然」に対する畏敬の念を抱きながら、それでもこの列島で「自然」と共に生きてきた。どんな状況にも適応する本当の強さである「しなやかさ」を身につけてきた。これを英語では「レジリエンス」と言うのだと思う。ところが今の日本社会は、この「レジリエンス」を「強靭さ」と訳す。いつからこんな浅はかな感覚を身につけてしまったのか。よほど、この著者であるエマ・マリスの方が「しなやかさ」を理解している。

この本は西洋文化の中で育まれた議論ではあるが、日本で自然保護を生業にしている人にこそ素直に読んで欲しいと思う。これを読んで日本における自然保護の向かうべき道筋を本気で考えて、地域経済が循環する社会をデザインして欲しいと願う。

SDGs「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」は、タイトルが「私たちの世界を変革する持続可能な開発のための2030アジェンダ」であり、「このアジェンダは地球と人間と繁栄のための行動計画」だと前文の冒頭に書かれている。そして、「我々はこの共同の旅路に乗り出すにあたり、誰一人取り残されないことを誓う。」と言い、「この目標とターゲットは統合された不可分のものであり持続可能な開発の3側面である経済・社会・環境を調和させるもの」だと言い切っている。「自然」は、「経済」と「社会」との調和なしに取り組めないのだ。

この本でポイントに感じた部分を抜粋すると、

===

〜〜生態学や自然保護運動はなぜ人間を排除したのか。有史前に生じた人間由来の環境変化を示す証拠が発見されたのが比較的最近だったことと、人間とその仕業から逃れるためにウィルダネスを目指す傾向があり、その結果、自然の概念と無住のウィルダネスという概念が結びついたため〜〜

〜〜作家ビル・マッキベンは「自然の終焉」で、「自然の定義=人間社会からの分離」とし、「私たちに唯一できるのは、放置してさらに悪化させるよりは、悪化の程度を抑えることだけである」〜〜

〜〜新しい生態系(novel ecosystem)=外来種が支配する生態系。移動と進化と新たな生態的関係の形成に忙しいのは世界中の外来種、蔑視される今日の侵入者たちにも、未来の生態系のキーストーン種となる可能性は十分にある〜〜

そして、岸さんのあとがきからも気になった部分を抜粋すると、

〜〜マリスが重視するのは「価値ある自然」「保護されるべき自然」と人々が了解する領域をめぐるビジョンの転換。「手つかずの自然」こそ価値ありとされた伝統的なビジョンの中の「自然」は、今となっては「幻想」だと自覚せざるを得なくなった。(中略)今や「自然」はすべての人の干渉・管理のもとにある「ガーデン」となった〜〜

〜〜賑わう生きものに優しく、生態系サービスが機能し、過大なコストを避けられるなら、自然保護の目標は多様でいい。代理種を利用して過去の生態系の模倣を目指す、温暖化の速度に適応できない種の管理移転を進める、在来種の厳正保全のために外来種を徹底的に排除する方式も局所的にはあっていい〜〜

「自然」という幻想ー多自然ガーデニングによる新しい自然保護ーより。
===

岸さんのあとがきによると、このエマ・マリスは、「新しい自然のビジョンを丹念な取材に基づいて紹介し続ける新時代の卓越した環境ライター」とある。この本を日本に紹介してくれた岸さんに改めて感謝をお伝えしたい。

現代ならではの自然保護、SDGs時代の自然保護を多くの人と考えていけたら嬉しいです。ぜひ読んでみてください。スカッとしますから。

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2018年08月12日

東北の海岸林8 それぞれの入江

2013年から断続的に続けている車中泊で巡る東北の海岸線。震災から7年が経ち各所の景観が大きく変化してきており、今回はどうしても撮影が手薄だった岩手県沿岸を確かめたくて夏休みを利用して向かうことにした。今回で8回目。そろそろこのシリーズの構成が見えてくる。

8月9日、初日。

台風13号が銚子沖を北上する頃、小雨の自宅を出て東京駅に向かいはやぶさで晴天の盛岡へ。

レンタカーに乗り宮古市へ。山道で曇天から激しい雨に。googleマップで見つけていた宮古市の海岸に到着。巨大防潮堤を見下ろす印象的な赤松。一気に「海岸林の記憶」へとスイッチが入る。

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ルートイン宮古周辺で松のあるいい感じの風景を見つけたが雨のためやり過ごし重茂半島の漁港を目指す。魹ヶ崎に向かう道に逸れてみると漁港の目の前に姉吉キャンプ場を発見。ここは堤防もなくキャンプ場から船着場が見える。石浜漁港まで向かい松が港を見下ろすアングルを発見し納得の撮影。この姉吉地区はとても細い入江の奥、海から離れた高台に集落がある。先人の知恵を感じる。

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キャンプ場の駐車場で車中泊。21時には就寝。盛岡に着いてからは日中の気温が20度を超える程度で全く汗をかかない1日だった。今日から二泊三日の車中泊。岩手県の海岸線を撮影する。松のある風景に出会う旅。台風13号が追いついて来たようだ。

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8月10日、2日目。

かなり寝たと思って時計を見たら24時。その後何度か目覚めて4時半には自然に起床。ひぐらしの合唱、雨上がりの朝。

宮古市内に戻る途中、赤前地区では道路のすぐ横に海が迫っている。ある地域では道路を守るようにしか見えない巨大防潮堤も見てきただけに、この風景が維持されることを祈りつつ気持ちの良いドライブ。

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その後はコンクリートに囲まれつつある山田湾では国道45号線沿いに松。そして良い波が寄せていて数人のサーファーが浮かぶ浪板海岸でシンボリックな赤松を撮影。

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大槌町内に入ってびっくりしたのはJRが復旧していること。2015年に来た際は橋脚だけを残し津波遺構のようになっていたので余計に驚いた。ここまで出来るのかと感動した。まだ開通していないが復活の日は近そう。鉄路の復興はとても勇気付けられる風景だ。これを見るとやはりBRTにシフトした地域を個人的に残念に思うのだ。

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根浜海岸に行き特徴的なアングルをトライ。ここは松並木越しに今も海が見える。次に釜石湾の泉海水浴場を目指すが使われていないような旧道の先は私有地で入れず。釜石観音を見上げる埠頭で撮影。先を急いでいると、測量石という記述に惹かれて脇道にそれてみると小さな集落の小さな入り江にも巨大防潮堤。しかしよく見たらその手前に、二股になった1本の松が立っていた。撮影していると通りすがりの老人に話しかけられ聞いてみると、津波後にここに20-30本の松が残ったが、市と県の行き違いなのか50軒ほどあった集落の瓦礫の仮置き場にするために1本を除いて伐採してしまった。この松は、80年ほど前に地域の住民が入り江の反対側に植林するために背負っていった苗木の残りを植えたものだそうだ。なんとも言えない気持ちで思いを込めて撮影。そして測量石とは伊能忠敬ゆかりのものだった。

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さらに南下し吉浜海水浴場に至る。湾の左岸に松の防砂林が広がる。吉浜地区もかなり津波にのまれたところだが、過去の津波の経験から高台に集落を移した地区で奇跡の集落。砂浜の背景にあった松林は全て流されたようだが、砂浜の横に広がる松林は津波に沿うような地形のため被害がさほどなかったようだ。きれいな公衆トイレが新設されており今日はここで車中泊。夕暮れ時に土砂降りとなり日没までに上がる。

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今日は地図とにらめっこしながら南下。思いがけず多数の松との出会いがあった。宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市と巡り、終日気温は22度程度でTシャツでは肌寒いぐらい涼しく快適。

8月11日、3日目。

星空を見上げて眠りについたはずなのに、無茶苦茶に車の屋根を叩きまくる豪雨が2回あり目が覚める。4時半に目覚めると雲間から朝日が差し込んできた。

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5時過ぎに動き始め、この三陸町吉浜で朝日が劇的な松林に魅せられてしまいすっかり足止め。それにしてもこの地区は魅力的な地形の集落。海岸からの低地は田んぼが広がり、自然の丘陵と思われる地形で一段上がったところから集落が広がり味わい深い建物が並ぶ。そして集落の中心にある一本松はロータリーのような役割を担っている。なかなか去りがたく行ったり来たり。ここも先人というか賢人の集落。

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次は一つ南の越喜来湾にある浪板海水浴場はひなびた感を満喫。「恋し浜」の名前につられて駅を撮影。次の南の綾里湾にある綾里海水浴場に立ち寄ったが被写体はなく、次に何となく気になって降りていった小路漁港はちょっとした秘境感のある眺めだった。その後は一気に陸前高田に向かったが、大船渡周辺はコンクリートの壁が立ち並び海が見えない風景が圧倒的に増えたように感じる。

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さて、広田町の只出漁港に着いた。ここは2015年5月に来た時は漁港の横に小高い松林があって石碑が残っていた。今の気持ちでどんな写真が撮れるか確かめに行ってみたのだった。すると漁港全体を巨大防潮堤で囲む工事が進んでおり、小高い松林は跡形もなくなっていた。愕然とした。かなりのショックだ。住民の意思で決まったことだと信じて諦めるしかないなと思って今の殺風景を眺めて後にした。

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広田町の大野海岸は巨大防潮堤に遮られた砂浜には海水浴客でいっぱい、防潮堤の内側を走る道路に沿う駐車場もいっぱいで興ざめ。久保地区などを見た後、新しい道路から松並木のある浜が眼下に飛び込んできた。迷わず向かうと石浜キャンプ場とある。津波にのまれる前は松原が広がっていたようだが今は数本が並んでいるのがなんともいい味を出している。その数本から松韻が聞こえてきた。しばし木陰で佇む。この浜は震災前の堤防のままで海が間近に見える。やはり味わい深い。

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いつまでも残りたい気持ちを抱きつつ隣の鳶の巣に行くと小さな砂浜にいくつかの家族連れが海水浴。ここには堤防すらない。穴場のようで微笑ましくなんだか懐かしい。先を急ぐと再び集落の先に松並木が見える。向かってみると本当に小さな長船崎という集落に堤防のない小さな船着場がある。集落の家も木枠の古い家。時間が止まったような場所だ。例えばこの地に生まれていたらどんな人生だったのだろうと思う。人の生とは不思議なり。

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さて、時計を見るとまだ時間に余裕があると判断し唐桑半島を撮影することにして一気に向かう。早速、石浜という船着場の前に佇む立ち枯れた松を撮る。次に津本という集落の漁港では巨大防潮堤の向こうにある船着場に打ち上げられた松の枯れ木を撮る。そして最南端の御崎まで行き、北上すると立ち枯れた松がとにかく目につく。神の倉あたりで撮影し堤防すらない欠浜で一休み。まだ時間が少しあるので巨釜半造にいたる。圧倒的に立ち枯れた松、松、松。印象的な1本を撮って気分的にも今回の撮影を終了。唐桑は海岸に松が多いのか、とにかく立ち枯れた松がいたるところで目に入ってきた。

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今日は大船渡市、陸前高田市、気仙沼市の唐桑と走り抜けた。

リアス式海岸の地形を活用した船着場や海水浴場の数々が印象深い。その背後に広がる集落も地形に応じて規模が違い見ていて飽きない。巨大防潮堤を悔しく思う入り江もあれば、堤防すらない入り江もある。一つ一つの入り江に住民の意思があり風景が成立しているのだと感じる。もっと一つ一つの集落を丁寧に旅したいと思えるそんな1日だった。そして、唐桑から一ノ関まで意外と近く1時間ほどで着くと知り、朝5時から夕方まで12時間以上の撮影時間を得て粘ることができたのも良かった。

それと何と言っても日差しが強くなっても気温25度。風は涼しく湿度も低く気持ち良く、朝夕は22度と快適な夏の1日でもあった。

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いよいよ姿を現し始めた巨大防潮堤を各地で見て思うことは、やはり設計する土木工学を学んだ人たちが、日本人の風景観をしっかりと学び、自分が設計する土地の歴史、風土、民族を知った上で仕事をするべきだと思う。もちろん現場をくまなく歩くのは当然。

政府がどうした県知事がどうしたではなく、根本原因を正していかなければいつまでもこの間違いを繰り返すように思う。地域の住民の年齢層や地形によっては本当に巨大防潮堤が必要な場合もあるかもしれない。その判断は素人の僕にはできない。でも、その土地の地形や風土にあったデザインというものがあると思うのだ。それは設計する人間のバランス感覚、センス、才能に頼るしかない。この人材育成が最も必要。その上で地域での合意形成のあり方が問われるのだと思う。

暮らしの基盤を失った直後にこの議論を行うことの困難さ。ある地域では防潮堤と高台移転がセットで考えることになっていると言われたりしていた。住民が心理戦に追い込まれているように感じた。まずは暮らしの基盤を整理してからまちづくりの話として防潮堤の議論をしていく手順があっても良いのではないかとも思うなど、いろいろ検証することができるはずだ。

今回は3日間だけの旅だったけど、やはり7年の歳月で入江ごとの景観に大きな違いが見え始め、自分の目でもその変化を確認し体験することで観察者から一歩前進し感情移入でき、何かを得たような気がする。

文中に記した「堤防」とは、津波以前からある暮らしと共存してきたコンクリートによる造作物。「巨大防潮堤」とは、津波後に、次々と立ち上がっているL1規模を基本としつつ地形やまちづくりなど地域の状況に応じて高さを決定すると言われているコンクリートによる造作物。

参考:「海岸をめぐる現状と課題」(日本海岸協会の資料)

この資料によると、岩手・宮城・福島の3県で災害復興実施箇所は563海岸あり、そのうち防潮堤の高さで議論のある地区は9地区海岸で全体の2%となっている。

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さて、今回は、メインのハッセルブラッドで12枚撮りのフィルムを13本の156カットはまずまずの量。デジタルカラーはCANON EOS5 Mark IIIで596カットと雨だったので少なめ。ハッセルの確認用にCANONのデジカメでモノクロスクエアで記録。そしてFacebook用にiPhoneでも撮影。4つの機材を持ってあっちフラフラ、こっちフラフラ。フジフイルムが秋にモノクロフィルムの製造を終了することを踏まえ、このシリーズをまとめなければとプレッシャーもあり、また今後の撮影スタイルも考えねばと思いつつ、何となく不便が楽しいというか、勝手なこだわりでできたスタイルを楽しいと思うところもあり悩ましいです。

posted by 川廷昌弘 at 17:23| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月02日

東北の海岸林7 さまざまな風の音

2013年から断続的に続けているGWに車中泊で巡る東北の海岸林。北は下北半島から南は北茨城まで撮影ポイントもつながり、今回で7回目になる。

4月28日、初日。常磐線の泉で下車しレンタカーに乗り換え。

今回は、いわき、富岡、双葉、山元、亘理、東松島など、撮影済みのエリアだが密度を上げたいと考えている。しかし、どこが午前でどこが午後で夕暮れをどこで過ごすかなど的を絞れないままスタート。時間に追われない自由が良い。

北上しているうちに帰還困難地域に入って行ったので、昼間のイメージは福島第一原発に最も近い双葉海水浴場。昨年までは立ち枯れた松の墓所のような風景だったが、すっかり伐採されて一面に松が植樹されていた。少し内陸で原っぱの中に一本だけ立ち枯れた松。前回は気にならなかったが浮かび上がった。いずれなくなる風景ではないかと思う。

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帰還困難地域を国道6号線が抜けていく。人の気配が消えた風景が続く。

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目指していた富岡駅に到着。常磐線が復興しているとは知らず撮影のイメージが持てないまま過ごす。それにしても鉄路の復旧ほど心強く感じるものはない。人の交流、通学の生徒達。そして旅の空。明日に備えて南下し四ツ倉周辺で日没となり月夜の松陰を撮影して終了。1日晴天、気温も20度を超える。車中泊。

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4月29日、2日目。

今日は北茨城在住の画家である毛利元郎さんの自宅を訪ねる約束。昨日、品川で特急ひたちに乗ろうとした時、突然肩をたたく人があり振り返ると毛利さん。ちょうど同じホームに到着した常磐線に乗っていたようで驚くばかりの偶然。動き始めた車内で毛利さんからFacebookのリクエストが着信。しばしのやりとりで今日の訪問が決まった。兼ねてからこのGWの撮影で訪ねたいが連絡手段がないなあと思っていただけに驚いた。十年ほど前に出会った同い年の表現者。相性とはこういうことを言うのかもしれない。

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5時起床、6時頃から舞子浜、豊間、須賀と再び撮影。記憶にある場所、行き着いて思い出す場所。何度もプリントを眺めているので、次はどう撮りたいかというイメージが浮かぶのが早く、短時間で深堀りでき収穫は大きい。充分に撮影して9時半に毛利さん宅。スマホの地図アプリでドンピシャ到着。奥様と3人で尽きぬ会話。毛利さんの絵は奥様の額装で完成する。素敵なハーモニー。

毛利さんのこれまでの歩みや背景を知り、ますます画家としての毛利さんに興味を持った。ものづくりがとことん好きで、とめどなく深く強いエネルギーを持ちながら、極めてストレートでシンプルな表現。しかし自身の背景とその場所の流れゆく時間を塗り込んでいく画風。そんな毛利さんだからだと思うが、僕の写真に時間軸を見出して魅力を感じていると言ってくれる。非常に励まされつつ、お二人の手料理によるイタリア仕込みのランチをいただき、アトリエでお二人の写真を撮る。

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毛利さんの自宅は、裏山がありお堂があり梅林があり、昔は寺子屋をやっていた建物があり、400年前にこの地にご先祖さまが住み始めたという。裏山から水が出る田畑を守るには最適の土地だったようだが、画家にとっては湿気が多く管理が大変な土地とのこと。独特のペースをお持ちだと思っていたが、この土地のペースなんだと理解。鉄道によって地域が繋がってしまって都心に人を集めてしまったが、地域が豊かだったことを実感する時間ともなった。この時代だからこそ、地域の豊かなもに喜びを感じたいと思う。

再会を約束して出発。毛利さんが描く地元の海の小品も好きなので、まっすぐに海に向かい撮影。なるほどこの光と色。すぐに気がついたがここは間違いなく前回訪れた海だった。

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その後、浪江まで常磐道を走り、松川浦までできるだけ海に近いルートを走る。前回走れた小道は閉鎖され、新しい道ができていたりする。立ち枯れた松もほとんどが消えていた。僕も見ることはできなかったが井田川地区に夫婦松の写真パネルが立ててあった。海岸林の松はやはり地域の人に愛されている。

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以前はなかった巨大な風力発電の風車が海沿いに並び、海の照り返しかと思ったら一面ソーラーパネルの海となっていた沿岸平野部。地域経済につながっていることを願う。この地域にとって今は前進しかないのだ。1日晴天、気温は25度前後。車中泊

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4月30日、3日目。

5時起床、5時半ぐらいから移動。はるか海上を車が走るのを見つけて思わず向かう。早朝で車は少なく、太平洋と松川浦に挟まれた道路の見晴らしは抜群。この大洲松川ラインが今月21日に開通したばかりと後で知った。ここは当然ながら未撮影地のため、砂浜に降りたり、灯台の高台に上がったり。朝日に照らされる被写体の背景に抜ける青空。ミサゴに見下ろされながら立ち枯れた松を撮影。気がづいたらその木が住処だった。粘りに粘って気が付いたら3時間ほど滞在。

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整備された相馬港にある伝承鎮魂祈念館。前回に訪ねた時は津波の爪痕のままだったが、その時にあった印象深い松も伐採されていた。できるだけ海沿いの道を選ぶがまだ工事が多く全通していない。福島県内では砂浜と道路が接してる素敵なロケーションがあったが、宮城県に入ったら大きな防潮堤がしっかり出来上がっている。両県の工事の歩調が合っていないようで県境の道がつながっていない。

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福島県の海と一体となった復興のあり方に非常に好感が持てた。宮城県はかさ上げ市道の玉浦希望ラインや岩沼海岸道路など開通し快適なコースが出来つつある。さすがにナビのアプリがついていっていない。午後から薄曇りで夕方は曇り。気温は25度近く。車中泊。

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5月1日、4日目。

4時半起床。避難の丘から日が昇る。各所にこの丘ができている。普段は眺望が楽しめ周辺の地形が見て取れる。今日は5時には動き出す。思い切って東松島に向けて常磐道を走った。

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「青い鯉のぼり」をどうしても撮影したかった。男性が幼い弟が好きだった青いこいのぼりで鎮魂だけでなく多くの人を励ますメッセージを発信していると記憶している。僕にも仕事で世界を駆け回っている自慢の弟がいるので、兄弟愛に心を打たれる。

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東松島、野蒜海岸、この辺りも撮影しているが、今日も深堀に十分な手応え。宮戸島は初めて足を伸ばした。砂浜と小さな港がある静かな場所。果てしなく広い海岸に大きな波が寄せるかと思えば、こんな静かで小さな入り江がある宮城県。魅力を感じる。

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野蒜の漁港跡周辺の植林地を撮影していた時。しゃがみ込んで集中してシャッターを切った後、スッと立ち上がるとひどい立ちくらみ。いつものことだと思って目を閉じたが、なんだか立ってられない不安定さを感じたと同時に普通に立っているのにふわっと両足を同時に滑らせるように後頭部を地面にぶつけた。思い切り後ろに倒れたのだと気づいた。立ちながら一瞬気を失ったのだ。ぶつけた頭は思ったほど痛みはなく肩が痺れるような感覚はあったが回復した。普段は誰もいない場所。このまま気を失うか脳シントウでも起こしたらどうなっただろう。50代中盤。撮影をしながらコロッと、というのは本人は幸せなことかもしれないが周りには迷惑千万だろう。僕が何者で何を目的にここにいたのかがわかるようなネームタグをつけなばならないのではと考えた。

三陸道に乗り、一気に岩沼まで南下。何度も通って少し見慣れた風景になってきたが、亘理で見過ごしていた存在感のある松を見つける。工事によって風景に変化があり、消えてしまった松もあるが、残って存在感が増す松もある。

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中浜小学校の隣に1000枚を超える「黄色のハンカチ」が風になびく。90名の生徒や職員、地元の人が避難して助かった校舎。印象深い風景。松のある風景ではないが「青い鯉のぼり」も「黄色いハンカチ」も松韻と同じように優しい風の音が聴こえてくる風景だと感じて撮った。

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再び6号から常磐道で富岡町まで南下。今日は、どのように撮りたいのか少しイメージができている。必ずしも海岸線ではないが内陸でも松韻の聴こえる僕にとって懐かしい被写体。学校、踏切。松を絡めて風景を追い込む。風が気持ちいい。ここで撮影を終了。常磐道をいわき湯本まで南下し泉駅に予定通り18時半に到着。1日晴天、気温は25度を超える。

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4日間でハッセルブラッドにブローニーフィルム12枚撮りを15本で180カット。ハッセルと同じアングルで確認用にCANONコンデジでモノクロを180枚。CANON一眼レフで856枚は少し工夫して。スマホでちょこちょこ。

Tシャツとトレーナーがあれば夜も過ごせた。ダウンやウィンドブレーカーは着用せず。

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愛用のフィルムが製造販売中止

今年10月にフジフイルムがモノクロフィルムの販売を終了してしまう。フィルムを丁寧に装填し1枚1枚精神を研ぎしまして撮影するハッセルブラッド。僕の写真の流儀。

親父からの生前相続した1970年製造の相棒であるハッセル。そして自宅の暗室で六つ切8x10インチのRC印画紙にテストを焼いてファイルで持ち歩き、展示用に大四つ切11x14インチのバライタ印画紙に焼く作業をこれからもなんとか続けたい。

芦屋の「一年後の桜」「芦屋桜」と湘南の「松韻」。僕の原風景である「桜」と「松」のある風景。大切なテーマだから、モノクロフィルムをハッセルブラッドに装填して撮り続けている。これをどのように継続するのか。自分の生業が問われている。

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僕の写真の流儀

気になる風景の前に立つ。まずハッセルブラッドの目で探す。スクエアのファインダー越しに風景を追い込む。突き詰める。見えてくる。段々と。そして納得に近い情景となってくる。この繰り返し。絵作りというより風景を攻めて追い込み突き詰める感覚。ようやく1枚のシャッターを切る。ハッセル独特のバシャッという音と手応え。大きく深呼吸。心地よい疲労感。デジタルにはないフィルムらしい緊張感が好きだ。松韻が聞こえる風景を撮る。松を撮るのではない。何度も言い聞かせても物を見てしまう。物語を見るのだ。そう思いながら風景を追い込んでいく。そして念じるようにシャッターを切る。
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2018年04月28日

ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く

振り返ってみれば、盟友の水野雅弘さんが熊野に移住し、その地に生きた南方熊楠に日本のエコロジーの原点を見たという話を聞き、呼ばれるままに2016年2月に久しぶりに南紀に足を運んだのが始まりでした。

南紀は、学生の頃にバイクで野宿旅をしたり、関西支社勤務の頃は芦屋の実家から車でよく休暇で訪れていたのでした。しかし今回初めて熊楠というフィルターを通して見ると、これまでこの地域の本質を見ずに過ごしていたことに気づきました。

熊楠の視点でこの地を撮りたいという写真家としての思いが急激に高まり、2016年9月に水野さんの紹介で熊楠を研究するみ熊野ねっとの大竹哲夫さんからレクチャーを受け、南方熊楠顕彰館を訪ねたことから始まった熊楠詣で。

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そして、2016年10月、11月、12月、2017年2月、4月、5月、2018年1月と不定期ではありますが、なんとか時間を作っては足を運び、主に大竹哲夫さんのガイドという贅沢な熊楠ゆかりの地を巡る撮影を続けています。

これからも撮影は続けますが、すでに47箇所を撮影することができており、これまでの蓄積を一つの形として発表することを水野さんと考えなんとか形になりました。それも志で一緒に立ち上げた「一般社団法人CEPAジャパン」の事業に写真家としてです。コミュケーション会社のプロボノではなく、写真家という表現者として。これが極めて僕には重要なことなのです。

この年齢になって、ようやく自分がどのように生きたいのか素直に言えるようになってきました。「写真家として死にたい」これに尽きます。今回のこの企画はそんな僕に生きる力を与えてくれています。

さて、今回のまず初動は部数僅少だったのですが好評だった「ガイドパンフレット」。さらに、現在、日比谷図書文化館をキックオフに全国の図書館を巡回する企画として調整が進んでいます。

以下に今回の主旨を記します。

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南方熊楠は、抜群の記憶力と異常なまでの好奇心により明治時代にひらりと国境を越え、あらゆる知識と情報を森羅万象からひたすら英語と日本語に抜き書きし情報を提供しようとした人であり、生物多様性という概念の広さと深さを教えてくれるジャパニーズ・エコロジーの先駆者でもあります。

熊楠は、日本で最初にエコロジーという言葉を使って神社合祀に反対する自然保護運動を行いました。さらに、「風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ。追々交通が便利になったら必ずこの風景と空気がいちばんの金儲けの種になる」と言い、持続可能な観光による地域の経済振興も考えていました。文字通り100年早かった智の人でした。

現在、国内でも多くの社会課題と向き合う中で、国連が世界の国や地域と共有できる目標を掲げたSDGs時代と言われています。熊楠が知的財産になり得るかどうかは、インターネットによりあらゆる情報にアクセスできる我々に託されているのだとも言われています。

一般社団法人CEPAジャパンは、2010年に名古屋で開催された「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)」で公式発言を実現し決議文の修正を行う成果を挙げました。この時に強調したのが自然と共生してきた日本人の暮らしです。それ以来、日本各地の暮らしの知恵に学び新たな価値も創造する、熊楠のような未来志向のジャパニーズ・エコロジーを目指して活動を続けています。

今回、CEPAジャパンでは南方熊楠ゆかりの地を国の名勝地として定められた「南方曼荼羅の風景地」13か所から、車で巡りやすい場所を選定したガイドパンフレットを作成しました。制作に際し、3年かけて47箇所の撮影を行いました。そんな写真に囲まれながら、熊楠に思いを馳せる時間を多くの方と過ごせる空間と企画を立案しました。

一般社団法人CEPAジャパン 
2018年春
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この思いに千代田区立日比谷図書文化館のみなさんが応えてくだって、下記のキックオフイベントが開催される運びとなりました。

「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」
写真展・ポスター展
国際生物多様性の日の5月22日から6月17日まで。
撮影:川廷昌弘(公益社団法人日本写真家協会・一般社団法人CEPAジャパン)
協力:大竹哲夫(南方熊楠顕彰会事業部委員・み熊野ねっと)


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日比谷カレッジ
「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」

6月14日(木)の夜7時から9時まで。
第一部:新しい南方熊楠の姿『南方二書』を改めて読む

講師:田村義也(南方熊楠顕彰会学術部長)
第二部:ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く

講師:
田村義也(南方熊楠顕彰会学術部長)
   
大竹哲夫(南方熊楠顕彰会事業部委員・み熊野ねっと)
   
水野雅弘(株式会社TREE代表取締役・一般社団法人CEPAジャパン)
   
川廷昌弘(公益社団法人日本写真家協会・一般社団法人CEPAジャパン)

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主  催:千代田区立日比谷図書文化館

企画協力:一般社団法人CEPAジャパン
特別協力:南方熊楠顕彰館(田辺市)


詳細は日比谷図書文化館のサイトへ


ぜひお越しくださいね!

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2018年02月12日

日本で写真を撮る意味を考える

昭和31年に毎日新聞社から出版された写真集「雪国 濱谷浩」を古書で手に入れた。

「もはや戦後ではない」「太陽の季節」が流行語で、大卒銀行員の初任給が10,000円の時代。高度経済成長に向かいつつある時にこの写真集は出版された。価格は1,500円。今の対価で30,000円ぐらいだろうか。

撮影を始めたのは昭和15年。戦前戦後にすでに失われゆく日本の暮らしを、日本海側の冬の季節に求めて20代だった濱谷浩は夢中になって通い移住までしていた。写真作家で食っていけるわけでもないのにひたすらに撮っている。撮影データも添付されている。キヤノン、ライカ、ローライ。フィルムだけでなくフィルターも記されている。レンズはもちろん単焦点だが28mmから90mmが多用され最大でも200mm。

ポートレイトから風景。地域に腰を据えて自分の作品としてまとめる作業。僕がいつのまにか目指すようになっていたスタイルだ。108枚で構成されダイナミックなエディトリアルで作り上げられている。被写体に向かっていくエネルギーをひしひしと感じる作品群。

あとがきに、「写真の記録性を強く主張して、仕事を進めました。特に、人間の形成に基底的な作用を持つ、民俗というものは、何らかの形で今のうちに記録にとどめておく必要を痛感しました。」「ここの人たちにはアメリカの近代生活を夢見ることがありません。一日一日を正確に真実に生きることを考えています。その裏付けに、彼らの民俗があるのです。私のカメラは以上のような考えをもって桑取谷へ入ったのです。」とある。

いつの時代も、政策によって日本の民俗は少しずつ少しずつ失われてきた。何度も何度も読み返し、自分の写真との向き合いを考える。また一つバイブルを手に入れた。僕は、自分の感性を信じてコツコツと撮影を続けていくというささやかな決意をこの写真集に誓う。

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