2021年01月17日

117に想う

阪神淡路大震災から26年。毎年、この日に想うことを記してきた。今年はやはり、コロナ禍による緊急事態宣言中でのこの日を迎えたということに尽きる。

阪神淡路大震災を契機としたかの如く、それ以降、大規模で甚大な被害をもたらす天災に見舞われてきた。災害大国日本はまさに激動期なのではないだろうか。

間もなく10年を迎える2011年の東日本大震災、2015年の御嶽山の噴火、2016年の熊本地震、2018年には西日本豪雨と北海道胆振東部地震、2019の台風19号など。そして2020年のコロナウイルス感染症である。

コロナがトドメのように受け止めいているが、しかし緊急事態宣言を過ごしている中でさらに危惧されているのが、東南海地震や首都直下型地震だ。東南海は今後30年で70〜80%の確率で発生すると言われ、富士山だって噴火スタンバイ状態と言われている。

地震、噴火、津波、氾濫、そしてウイルス。いずれも生死は紙一重。

阪神淡路大震災でタンスの下敷きになったことは、僕にとってはショッキングな記憶となっているが、同じように何かの下敷きになって亡くなった方は、死亡者の7割以上とも言われている。毎年の報道を見るたびに「生かされた」という想いが強くなる一方、備えることに対して緩んでしまっているのも事実だ。

備えあれば憂いなし。今年の117ほど多様な災害に対して、この26年間の学びを振り返り、コロナ禍の中で起こるかもしれない次の天災に備ねばと想う次第です。

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今年の正月は帰省を控えたので芦屋の最新の風景写真がないため、2019年の4月に撮影した芦屋の桜です。

こちらは、震災10年後に出版した「一年後の桜」の作品群へのリンクです。
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2020年12月30日

この時代にバライタ印画紙が性能向上で感激

来年2月に開催する「松韻を聴く」の個展に向けて、久しぶりに11x14インチのバライタ紙でプリントしている。

印画紙は大阪写真専門学校で使い始めたILFORDをもう30年ほど愛用している。しかし2013年頃に国内での取り扱いが変わって値段が倍増し、暗室ワークもこれまでかと思っていたら、海外からの取り寄せだと半額近い値段で手に入ると知り息を吹き返した。

NYにリアル店舗があるB&Hは、ネットでも日本円で表示されているので購入しやすいため、多くの写真家が利用していると聞き活用する。

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B&Hのリアル店舗(Googleストリートビューより)

今回の作業では、その頃に国内で購入していたバライタ紙がまだ手元にあったのだが、10枚ずつの小ロットで作業に没頭するには枚数が小刻みのため、無意識にB&Hで購入した50枚入りのBOXを使った。するとこれまで経験で培ったデータよりも光を強く感じ違和感を持ったけど、露出を絞ったためなのかこれまでになく階調が豊かに再現でき、期待以上のプリントワークができたので、気分も良く調子に乗って作業を進めることができた。

3日目の今日、50枚を使い切ってしまい、ストックしていた国内で購入していた印画紙でプリントをしてみたら、光を感じにくくデータがまた狂ったと愕然とし一瞬落ち込みかけたが、何でだろうと両方のパッケージを見比べれみたら、何と!同じバライタ光沢厚手だが、商品名が写真の通り違うのである。これに今頃気がついた。B&Hで購入したのはCLASSICとなっている。

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同じタイプの印画紙だが表記が違った

慌ててネットで調べてみたら、このようなデータを掲載している写真家の斎藤純彦さんのサイトを見つけた。

性能向上に関してメーカーの記述を抜粋転記。
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イルフォード・マルチグレードFB CLASSIC ファイバー多階調印画紙は、イルフォード・マルチグレード IV FB ファイバー多階調印画紙の後継製品として、以下のように性能が向上しています。

・最大濃度が上がった
・水洗時間が50%短縮
・露出時間が短くなった
・各グレード間の階調差がより均一
・画像がシャープになった
・現像時に画像がより速く出現
・階調特性が改善された
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腑に落ちる、腹に落ちる、合点がいく、自分が感じた通りのことが書かれているので大いに安堵した。さらに詳しく斎藤さん自身の見解が書かれている。志向する表現が違うので、その見解がさらにヒントになった。

そして何より感激したのは、デジタルカメラ隆盛のこの時代に、バライタ印画紙の性能をILFORDと言うメーカーは向上させてくれているということだ!もう行く末が見えないと思いながら、12年ぶりに、自分で暗室にこもりプリントをするモノクロの個展を開催するにあたり、驚きと感激、そしてモチベーションが500%ぐらいアップなのである。

そうなると、暗室機器の寿命が心配になってくる。1991年に大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ大阪)の夜間部に入学した際に購入した機器が現在も元気に動いているのである。

引き伸ばし機はLUCKY 90M-D、タイマーはLUCKY Timer3、そしてセイフティライト。イーゼルはLPLユニバーサルイーゼルマスク5132。

印画紙が進化している現実を知り、どうか生涯の友であって欲しいと切に願う今日なのである。

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今日の暗室

2月の個展では、このように暗室ワークに新たな生きがいを感じ、様々な場所で出会った光景に再び感情移入しながら、印画紙に焼き付けた成果を展示したいと思いますので、是非とも来てくださいね!

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川廷昌弘写真展
「松韻を聴く」
場所:蒼穹舎ギャラリー
日時:2021年2月22日ー3月7日 13:00-19:00
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DMの入稿原稿


posted by 川廷昌弘 at 23:33| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月24日

写真集「松韻を聴く」を出版します

僕にとって4冊目の写真集の制作が始まっている。新宿御苑にある出版社の蒼穹舎で印刷会社から届いた初稿を見た。とても力強く手応えを感じるものになっていた。明らかにこれまでの写真集とは違うと思う。ワクワクする。

編集者の大田通貴さんのドライなセレクトで松の木にしっかり集中できる流れとなり、デザイナーの加藤勝也さんの手によって写真たちが新たな呼吸を始めていた。さらにとてもクオリティの高い印刷技術によって、ここまで僕のプリントが表現していたのかと思うほどの世界が再現されている。

自分で言うのもおかしいが、これまで自分が作ってきた世界観がとてもしっかりとした思いに支えられていることを実感する一方で、このような手応えを得られる機会をこれまでにも積んできていたら、もっと自信を持って撮影の時にしっかりと松と向き合って作品の枚数は増えたであろうと思う。こうして成長していくのだと思う。

写真集の構成は、これまでと違い自分の主観をできる限り捨てて大田さんに100%編集を委ねることができるようになった。人間として成長したのかな。それによって写真たちがとても互いに響き合い良い感じで収まっているのだ。テキストも大田さんの指示に従い、伝えたいと思っていた感傷的な部分は削除した。この写真集が陳腐にならないように。一人歩きできるように。

タイトルもシンプルにした。「松韻を聴く」だ。英語タイトルは翻訳者のヒントン・ミユキさんによって「The Voice of the Waves Through the Pines」となった。

発売は2021年2月21日の予定。出版に合わせて10年ぶりに写真展を開催することにした。蒼穹舎ギャラリーで2月22日ー3月7日。東日本大震災から10年の節目となる。

蒼穹舎ギャラリーへのアクセス

この「松韻を聴く」に取り掛かった背景について書いてみようと思う。

東日本大震災の直後から、東北大学に集まってグリーン復興プロジェクトと銘打って、岩手と宮城の海岸線に住む様々な人と交流し支援のあり方を考え行動し、各地の現状を把握していった。そんな中で、閖上「ゆりりん愛護会」の大橋信彦さん小泉海岸の阿部正人さんをはじめ、陸前高田の「高田松原を守る会」など、故郷の海岸線の風景を守りたいという強い思いを持った人に出会った。そして北海道から東北の海岸線に足を運び、地域の自然植生を活かした景観を再生する「はまひるがおネット」の鈴木玲さんとも出会った。

日本人の心の風景ともいえる「白砂青松」の風景。暮らしを守るために人の手で作られた風景。これが津波で徹底的に破壊された。閖上の大橋さんは震災の前に子供たちを集めて松林で環境教育を始めていた。この美しい風景を次世代に引き継ぐためだった。しかし壊滅した。大橋さんの自宅も流され、大橋さんもなんとか生き延びた。閖上の松林を取り戻したい。その一心で動き始めていた頃に出会った。小泉の阿部さん。美しい白砂青松の風景は跡形もなく、そこに幅90m高さ14.7mの防潮堤の建設が決まりゆく中で出会った。いずれも、何ができるのか足を運んで語り合ったが、外部の人間の無力感を抱くことになった。

地域の力になれることを模索している頃、ヒントが欲しくて写真家の視点で見つめてみることにトライしようと、2013年のGWに松川浦から閖上の松林のあった風景を車中泊で撮影した。無人の荒涼とした風景に佇む立ち枯れた松や生き残った松。圧倒的な存在感。被写体としての魅力。この手応えを形にすることができないだろうかと思ったが、この地域に何のゆかりもない僕が、これを撮って良いのだろうかとためらってそのままになってしまった。

阪神淡路大震災の10年後に出版した写真集「一年後の桜」は、被災者としての言葉にならない心情を撮り続けたものだった。部外者の自分にできる写真を通した表現とは何かを悩んだ。

2015年、震災から4年が経ち、復興の槌音が聞こえ海岸線の風景にも変化が出始めた。この変化する風景の中で、あの松たちがどんな表情を見せてくれるのか、やはり撮りたいと思い、それから毎年、まとまった時間がとれる時に、北は青森の下北半島から南は北茨城まで、車中泊で海岸線を巡った。様々な立地の中で、立ち枯れた松、生き残った松が、雄弁に語りかけてくれた。しかし多くの立地は、人間の暮らしを感じる場所ではなくなっていた。暮らしを守る風景とはどうあるべきなのか。それを問いかける作品になればと思う。

撮影機材は、亡き親父から譲り受けた1971年製造のハッセルブラッド500Cにプラナー80mm標準レンズ1本で、フジフイルムのアクロス100というモノクロフィルムを使った。

阪神淡路大震災は被災者として撮影して10年後に「一年後の桜」を出版した。東日本大震災は外部者として撮影して10年後にこの「松韻を聴く」を出版する。地震大国に生まれ生きる人間として風景をどう表現するのかを追求することになってきたように感じる。是非とも手にとってご覧ください。個展にもお運びいただき購入してもらえたら、さらに嬉しいです。

写真集「一年後の桜」はこちらか購入できます。
続編の「芦屋桜」もあります。

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表紙の見本と本編の初稿です。



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2020年10月17日

今日は写真家の1日

13時から新宿御苑にある蒼穹舎で写真集の打ち合わせ。来年2月に向けて出版が決まりました!東北の海岸線に佇む松の木を2013年から撮り続けてきたシリーズが結実します。

8月23日、新宿御苑の蒼穹舎に10年ぶりぐらいに足を運び、編集者の大田通貴さんとつい先日会ったような雰囲気で語らいました。ここは写真集の出版・販売・ギャラリー運営をしている、写真に向き合う人間の聖地。阪神淡路大震災から10年後の2005年に、僕の初めての写真集「一年後の桜」を大田さんの編集で出版しました。今回は久しぶりだったので、大田さんに近況報告と2つの作品ファイルを見てもらいました。

1、2009年に新宿と大阪のニコンサロンで個展を開催し、現在も撮り続けている「松韻(湘南を渡る)」。
2、東日本大震災後の2013年から撮り続けてきた東北の海岸線の松のある風景「松韻(海岸線の記憶)」。

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すると、「これ本にできるね。」と東北のファイルを見て一言。「阪神淡路大震災の10年後に写真集を出した川廷さんが、東日本大震災の10年後に再び写真集を出すという流れだね。」極めて納得の物語。僕はどんな写真家として何を残していくのかが少し見える物語です。写真家として、僕は方向性を見失っているのではないかと毎日悶々としていたけど、この一言ですべてが吹っ切れました。自分の思考を信じて写真を撮っていて本当に良かった。

10年という歳月でさまざまな経験をして、客観性や普遍性に対する理解も多少深まり、多くのものを蓄えてきたからこそ、この瞬間が待っていたんだなあと時間の持つ意味を深々と感じました。これで「写真家として死ぬ」という人生最大の目標に近づけます。

亡き親父から譲り受けた1970年製造のハッセルブラッドに標準レンズ1本で1990年から撮り続けて今年で30年。その成果は、阪神淡路大震災から10年後に出版した「一年後の桜」。そして東日本大震災から10年後に出版するこの写真集です。タイトルはまだ仮ですが「松韻ー海岸線の記憶ー」の予定です。出版に合わせて久しぶりに個展も開催しようと言う事になりました。

頑張ります。

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そんなハイテンションのまま、表参道にあるハッセルブラッドジャパンへ。予約していた907X CFV50C デジタルバック入荷の連絡があり買いに来ました!1970年製造の親父から譲り受けたボディ500Cとレンズのプラナー80mmに、最新鋭のデジタル機能を搭載することが出来るのです!

マイレガシー、マイフューチャー、そしてマイドリームです。

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僕にはこれぞSDGs!生涯にわたり最新の技術で、親父が若き頃に夢を抱いて大枚叩いたこのボディとレンズを使い続ける事が出来るのです!僕も大枚を叩きました。しかしそれだけの価値があります。

このデジタル対応に向けて、いよいよ不調になっていたボディとレンズを8月7日に後楽園にあるクラシックカメラ修理のエキスパートであるウメハラカメラにオーバーホールに出してしっかりとメンテナンスを済ませていました。準備万端です。

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フィルムでも撮影が出来、デジタルでも撮影が出来る。夢のような話ですが現実です。1枚のCDカードにミラーレスのデジタルレンズで撮影した写真と、フィルムカメラのレンズで撮影した写真が並ぶのです。

様々な時々の大きな決断によって、人生が楽しく豊かになってきました。気持ちホクホクの東海道線での帰路に1本の電話がありました。

僕が指導する写真クラブの元メンバー荒井信雄さんの御遺族からでした。家族全員が集まり、写真集を是非作っていただこうということになりました!是非よろしくお願いします。と、とっても弾んだ声の電話でした。

荒井さんは僕にアドバイスを求め作品づくりに励んでいたのですが、体調を崩され闘病むなしくお亡くなりになってしまいました。

お通夜で、奥様から僕に成果を見せるために病院のベッドにパソコンを持ち込んで最後の最後まで楽しそうに作品づくりをしていたと聞かされ、棺を抱いて泣きました。

お葬式が終わり、写真クラブのメンバーとお家に伺いお話を改めて伺いました。ご本人は僕の指導の元で作品をセレクトし写真集にするつもりで研究していたとのこと。僕はその作品を預かり遺志を形にしようと決意しました。

しかし、実はこれは8年前の話なのです。詳しくは当時ブログに書きました。2012年12月9日でした。
http://kawatei.seesaa.net/article/306735637.html

その後、僕自身が離婚や引越しなど人生の巨大な節目を作ってしまい、自分の歩みの立て直しで精一杯で、常に荒井さんの写真を何とかしなきゃと言う気持ちは持ち続けていたのですが動けませんでした。

そして、茅ヶ崎に家を建て、毎日取り組んで来たSDGsも著書を出す事が出来、ようやく8年前に預かった写真作品が入ったボックスを開こうという心持ちになれたのでした。

2020年8月13日、写真クラブのメンバーの中島直さんに自宅に来ていただき、一緒にセレクトをしました。とても一人では再びこの作業をする自信がなったのです。8年経って改めて見る作品はさらに迫力を感じました。これが写真の持つ力なのかもしれません。印画紙が変化しているわけではないけど、自分が人生を刻むことで見え方が変わるためですが、荒井さんが見つけたアングルの魅力を理解できるようになったということなのかも知れません。

中島さんとも相談し、既に8年も経過してご家族の心境も変化しているかも知れず、この写真の話をするなら、写真集の発売が可能なところまで作業を詰めておこうということとなり、これもまた10年ぶりぐらいに蒼穹舎の大田通貴さんに連絡して相談に乗ってもらえることになりました。それが冒頭に書いた8月23日に蒼穹舎に行くきっかけでした。中島さんと蒼穹舎に2人でセレクトした写真と残った写真もボックスに入れて持って行き、この作品群を写真集にできるか相談をしました。ザッと見た大田さん、被写体をよく見ているようだし出来ると思うから少し預かってセレクトしてみると言ってくれたのでした。この時に僕の作品も持って行って、僕の写真集も進めていくことになったのでした。

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9月26日、再び蒼穹舎に行くと、大田さんの手によって枚数を増やし並び替えをされた写真群は1枚1枚の魅力がより伝わりやすくなって手応えのあるシリーズになっていました。これなら写真集にできるねと大田さん。思い切って8年ぶりに荒井さんのご自宅に電話をかけました。奥様が出られてこちらの状況をお話したら、やはり8年の歳月が経っていてすっかり僕が忙しさのために荒井さんの写真の事は忘れてしまっているのだろうと思って諦めていましたと戸惑いの声色でしたが、お話しするうちに段々と声色にも変化があり娘さんと一緒に話を聞きましょうと言っていただけました。

翌日の9月27日に8年ぶりに荒井さんのご自宅に伺い、8年もお待たせしてしまった経緯をご説明し作品群を見てもらいました。ありがたいことに、お二人とも僕のことはインターネットや新聞などで見聞きしてくださっていたようでご理解いただけました。僕の思いが8年前から変わっていないことを知って大変に喜んでくださり、写真集にすることを諦めていたけど、家族全員で集まって相談してみますということになりました。

写真集の持つ力。それは本人が存命でも他界していても関係なく、写真の魅力で存在し続ける。亡くなる直前まで作り続けた作品は写真集になることで半永久的に作者の思いを世の中に問い続けることが出来る。つまり荒井さんの遺志は意思としてこの世に存在し続ける。そんなお話をしました。

そして、荒井ファミリーは今日集まって久しぶりに荒井さんの写真について語り合われたのでした。僕の8年前のブログも家族で読まれたようで、その思いを持ち続ける僕に全てを託したいと言ってくださいました。

天国の荒井さん。大変にお待たせしました。2021年の前半には、写真集を完成させることができると思います!

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2020年01月17日

117に刻む

阪神淡路大震災から25年。今年の追悼のキーワードは「きざむ」だ。記憶の風化についての報道も年々多い。しかし今年は風化は自分の中で進んでいるという当事者の声が印象に残ったり、メディアが流す当日の多数の写真に不思議と体温を感じた。

被災者の一人として、風化させてはいけないということが、意識ではなく体感として染み込んできたのではないかと思えるのだ。

関西支社に芦屋の実家から通っていた。その実家は震度7のベルト地帯となった。最初の突き上げと爆音で、寝ていたはずなのに布団の上に座っている状態で寝覚めた。その後の揺れの記憶もあるし自分がどう反応したのかも覚えている。羽毛ぶとんを頭からかぶって右に左に叩きつけられ地球は壊れるのかと死を意識した僕の上に、足元にあったタンス2つが倒れてきて揺れが止まった。

左右にも上下にも揺れるローリング状態だったということは、数日後にNHK神戸支局の映像を見て理解できた。僕は多くの「下敷き」になった一人だったのだ。しかし幸いにも自力でタンスを押し上げて抜け出すことができた。被災地全体で、家具、梁、天井などの下敷きになって窒息・圧死した人は亡くなった方の約77%を占めるという調査結果もある。そう考えると僕は運が良かった。

その後のニュースなどで被災の実態がわかってくると段々と「生かされた」と感じるようになった。この体験が、環境や社会を強く考える人間へと成長させてくれたのだと考えている。無意識のトランフォームが自分の中に起こっていたのだろうと思う。

今年から国連はSDGs達成に向けた「行動の10年」を始める。誰も置き去りにせず、統合された解決策を推進する体制を強化し、国内や地域における取り組みを強化するように呼びかけている。

毎年117に繰り返しているこの想いを心に刻みつけ、生かされた命を使いきれるように感謝を胸に走り続けたい。

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2020年正月に芦屋霊園から市内を望む
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2019年06月12日

富士フイルム「ACROS II」の開発に成功!

誕生日前夜に飛び込んだ朗報!吉報!

2000年11月に発売開始され極めて繊細でシャープな再現力を誇った富士フイルムのモノクロフィルム「ACROS」。

いま撮り続けているモノクロ作品では、愛機のハッセルブラッドに中判カメラ用のブローニーサイズを装填しその恩恵にあやかり制作意欲を維持してきていたのですが、2018年秋にフィルム市場の縮小に伴って製造販売が終了?!というショッキングなニュースが飛び込み、慌てて市場に出回っているものを買い込んで気持ち的には細々と作品作りを続けていました。

そして、いよいよ今年中にはストックが切れてしまうのでデジタルへのシフトを考えねばなあと思っていたところ、なんとなんと!!

富士フイルムは、製造プロセスを見直して「ACROS II」の開発に成功したというではないですか!従来品に比べハイライト部の階調をメリハリのある設計とし、立体的な階調再現が可能!とか、世界最高水準のシャープネスにより、被写体の輪郭を強調した描写が可能!とか。そしてそして、発売時期は2019年秋(予定)と富士フイルムのプレスリリースには書かれているではないですか!

デジタルに切り替えを検討していたのに、今からこのフィルムを使うのが楽しみで仕方ありません!亡き父から受け継いだ1971年製造の愛機であるハッセルブラッド500Cとプラナー80mmの標準レンズ。まだまだ現役フィルムカメラとして活用できそうです。

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富士フイルム!ありがとう!やるじゃないか!!

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2019年05月04日

東北の海岸林9 東海岸ならではの光

4月30日 平成最後の日

今回は青森と岩手県県北部の沿岸の撮影を目指す。

八戸駅に10:47着。駅前でレンタカーを借りて一路海岸へ。途中、願成寺の桜に呼び止められる。まず最初は松並木が見えた五戸川の河口。周辺は防潮堤の建設が終盤に差し掛かっており、松の植樹も済み、以前からある松並木の中に、津波の爪痕の足元に水仙が可憐に咲き時間の経過を思う。

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おいらせ町の海岸

雨がこらえきれずに降り出したが、降ったり止んだりで上下カッパを着て撮影。八戸市、おいらせ町と延々と海岸線が続く。松林は深い。おいらせ町の防潮堤にはたんぽぽがへばりついたり、所々には松も自生し始めている。なんともたくましい。強い海風に乗って波の音が聞こえる場所に、松林を背景に桜が満開の甲洋小学校を見つけた。いつまでも佇んでいたい風景。

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甲洋小学校

防潮堤は延々と続くように見える。しかし所々に自然の地形のままで砂の丘があるだけの海岸線もあり嬉しくなって寄り道してしまう。ちょうど4年前のGWに撮影した三沢市四つ目周辺の浜辺。放置された舟は朽ちており、植樹された松は密度が濃くなっていた。津波で折れ曲がった松はそのまま。少し被写体を探して撮影。風が冷たく気温は10度程度。

六ヶ所村入ると、ますます広大で荒涼とした風景。時間とともに砂に埋まる風景。ここでは防潮堤の力も及ばないようだ。18時近くなったので今夜の寝場所を探す。やはり人っ子一人居ない海風に吹かれる場所が良い。六ヶ所村商工会の横にある野鳥観察公園のトイレを頼りに、六ヶ所漁協の奥、老部川の河口にあるスペースに宿をとる。

フィルム2本
Mark III 147枚
記録用コンデジ 17枚


5月1日 令和最初の日

5時半起床。雨も上がり早速撮影開始。

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六ヶ所村のこの風景の中で夜を明かした

そして北上開始。国土地理院の津波浸水範囲概況図に基づくと、六ヶ所村泊が大きく浸水した北限に見える。ゆっくり車を走らせると崖下から姿を見せる立ち枯れた松に呼び止められた。

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六ヶ所村の泊

北上し東通村の原発手前で浜に出てみる。多くの松が打ち上がっている。ここも老部川のようだ。水面漁協の対岸になる。原発の施設が背景になるよう撮影。さらに北上して、本州の太平洋側では砂浜最北端にあたる猿が森砂丘の北限である尻労地区に向かう。ヒバの埋没林は4年前に訪ねているので立ち寄らず。途中、砂丘に出ようと試みるが、東京電力と防衛省の敷地で立ち入りれる道を見つけることができなかった。こうして延々と黒々と広がる松の海岸林がありながら、どこからも立ち入ることができない砂丘地帯。大半を防衛省が管理というのを安心とも取れるが、政府が管理しているとも考えられる。

今日は、本州の太平洋側では砂浜最北端にあたる猿が森砂丘の北限である尻労地区から、雄大な風景を眺めてみた。生まれて初めて訪ねた集落はあまり人影もなく、冷たい海風が吹き気温は10度。山の上では巨大な風力発電が何台も回っていた。だだっ広い砂丘を時間を気にせず延々と歩いてみる。砂はきめ細かく柔らかく足が重い。吹き付ける風に冷え切っていたが戻ってくると汗だくになっていた。この集落の人たちは、風力発電の恩恵にあやかっているのだろうか?いろいろ複雑な気持ちになる。近くて遠い砂丘。本州の最北端の広大な砂浜はそんな場所だった。

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大須賀海岸

さて、昨日と今日は北の方が雨の確率が低かったため選択が的中して撮影をこなせた。明日は田老町から2日かけて八戸に北上する計画。そこで今日はこれからできる限り南下する。途中、ヤマセが発生していて写欲をそそる。たまらず八戸の大須賀海岸に立ち寄ってしまった。その後も様子を見ながら走り続け、日没を十府ヶ浦海岸で迎える。圧倒的な防潮堤が暗闇に浮かぶ。地図を見ると堀内地区にまついそ公園を見つけそこを今夜の宿とする。

フィルム3本
Mark III 227枚
記録用コンデジ 33枚

5月2日 晴れ

4時半起床。快晴の朝。早速、十府ヶ浦海岸で流れ行く雲と生き残った松を撮る。続いて4年前にうまく撮影できなかった崖の松も粘ってみる。今日はここから田老町に向けて南下する。

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十府ヶ浦

普代村の巨大水門。河原に降りて流れ行く雲の影をみながら撮影。4年前にこの水門の巨大さに驚いたが、東北各地に軒並み巨大防潮堤が立ち上ってきたので今は大きく感じない。

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普代村の水門

この東北の海岸林シリーズは「海岸線の記憶」をテーマに撮り続けているが、どんな風景に旅愁を感じるだろうと思いながら走っていたその時、黒崎橋から見下ろす小さな漁港が目に飛び込んできた。遠く水平線、シンプルな防波堤と小さな漁船。普遍的な風景。旅の空、旅の心を感じる。「記憶」とは、海岸林がもたらしてくれたであろう時間に思いを馳せるつもりで考えていたが、その中にこのような風景を混ぜることで深みが出てくれたらと考え撮影。

田野畑村に入った。前回訪ねた黒崎や北大崎をやり過ごし明戸浜。破壊された堤防の部分が保存され背後に道路を兼ねた防潮堤が完成していた。その内側に1本松が残り周辺に松が植樹されている。昭和12年に県有防潮林6ヘクタールが植樹されたらしい。いつか松林が復活した頃に訪れてみたい。ハイぺ海岸で休憩したあと島越の漁港でフォトジェニックな風景に出会ってしまい雲待ち。

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島越漁港

リアスらしい地形に沿って海沿いを走る。白池海岸では荒れた海の波しぶきが道路を濡らしている。ここには防潮堤がない。ここから道路はどんどん標高を上げていく。見えてくるのは高原の風景だ。緩やかな斜面に農地や牧草地が広がりサイロも見える。そんな風景から県道を外れて林道を20分ほど下って真木沢の海岸に至る。ここは鵜ノ巣断崖から一番手前に見下せる浜。うねりが大きく雄大な風景に打ち寄せる。みちのく潮風トレイルの標識があり、鵜ノ巣断崖まで0.8km、明戸浜まで9.3km。人の気配がなく去りがたい場所だった。

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去りがたき真木沢

これから少なからずご縁がありそうな田野畑村は、思った以上に広大で、ひとことでいうと東北の高原と断崖と海辺の村。北大崎や鵜ノ巣断崖のような代表的な海岸風景、多様な時代の地層が露出する海岸。そして穏やかな高原風景。多彩な魅力があるだけに観光や定住促進など課題が散漫になりそうで、地域に入る人の手腕が試される自治体だと感じた。

岩泉町に入って小本漁港の松の植樹エリアに向かった。ここでは大きな防潮堤が現存するがその内側に1本松が生き残っている。多分に相当な被害があったことは容易に想像できる。強風にあおられながら広大な風景を表現したくて四苦八苦する。気持ちが落ち着いたので一気に田老町まで向かう。水門横にある松林で松韻を聴く。明日は野田村から八戸までの撮影を残しているので一気に野田村まで戻り夕景の十府ヶ浦海岸で今日の撮影は終了。

Google mapsで充実する現在の旅。各地に残る海岸林の様子が良くわかり、どこにいてもロケハンが出来る。今回も事前に見つけていた明戸浜と小本漁港の1本松を訪ねた。そして真木沢は打ち上げられた松が確認できていた。その現物に会いに行った。そして現場に立って被写体として追い込んでいく。自分が納得できる絵作りができるかどうか。毎回、被写体からテストを受けているような感じだ。こんな旅の楽しみ方もあって良い。今日は1日中、時計よりも空を見上げ雲の流れをみていた。

今夜の車中泊は満点の星空。

フィルム3本
Mark III 258枚
記録用コンデジ 35枚


5月3日 快晴

4時半起床。昨日と違って身震いしながら目が覚めた。放射冷却なのか、日中の気温が高かったのに朝の冷え込みがきつい。油断した。

今日は八戸に北上する。海女ちゃんのロケ地小袖を抜けて久慈市内に入る。ここでは夏井海岸に松が数本防潮堤の外側に残っているが、その中でも数本が折れてしまっているのが印象深い。周辺には松の植樹は終わっており順調に育成していた。ひたすら海に近い道を選択して時間を気にせず北上を続ける。

今日のような快晴だと昼前から海がどんどん青くなる。洋野町あたりからは、右手の松林越しに延々と青い海と空が広がる。今日も多くの無名の風景と出会った。次にチェックをしていたのは洋野町有家。ここは想像以上の場所で海を背景に単線の八戸線の踏み切り。そして見下ろす海は絶好のサーフスポット。いろんなアングルを探して1時間は滞在したがとても去りがたい。

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好きな条件の全てを満たしてくれる場所

次は小山川河口の海岸。地元の人が玉砂利の上に昆布を干している。なんともホッとする風景に次々と出会った。松の足元は緑が広がりその間を砂利道が海へ降りていく。ここも観光エリアではなく地域の生活道だが、この光ならいくら眺めても飽きがこない。こんな出会いがあるから写真を撮りたいと本能で思うし、こんな撮影旅は自由で楽しい。

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無名の風景

緑が広がる階上町の小舟渡海岸。よくみたら小舟渡小学校と地続き。境界線に隔てるものはなく、きっと子供達は休み時間にグランドで飽き足らず海岸まで駆けて行ってしまっているのではと想像し、なんとも豊かな子供時代を過ごせることが羨ましく思う。震災後もこの立地に小学校があるのは安全だったのだろうか。避難場所にも指定されていた。

八戸駅に向かうには少し早い時間。初日に不完全だったおいらせ町の一川目で最後の撮影。西日が演出をしてくれた。その場で荷造りをして早めにレンタカーを返し八戸駅に着いた。これで4日間の撮影は終了。

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最後においらせ町の海岸

車を所有しなくなって何年だろう。毎回、公共交通機関で出かけてレンタカーを借りる。高齢者の事故のニュースが後を絶たない。普段は全く運転をしなくなったので、年齢に関係なく安全運転を心がけねばと思う。今回も大過なく4日間の旅を終えた。旅の空と写真の神様に感謝。

天気予報とにらめっこの日程調整は成功し、前半は曇天の下北半島に終始し、後半の晴天を岩手北部に当てた。とても充実した撮影ができたと思う。そろそろ、この「東北の海岸林」シリーズの撮影も終了を考えよう。足掛け7年間GWや夏休みなどを活用して車中泊の撮影旅を続けてきた。今回の撮影分を合わせてファイルチェックをしたいと思う。「海岸林をつくった人々(小田隆則)」「海岸線の歴史(松本健一)」などを読み漁り、横山大観の「海十題」の「松韻濤声」「波騒ぐ」「浜海」などを眺めながら、自分なりの世界観を作ろうと試みてきたが、写真家に問われるのは、風景に出会う想像力と風景に出会ってからの創造力だと感じる旅でもあった。だいぶ見えてきたように思う。そろそろ作品としてまとめねばと思う。

今回もHasselbradにPlaner80mm の標準レンズ1本、モノクロフィルムでメインの作品作りを行い、記録用にキヤノンS110でモノクロスクエア。そしてキヤノンEOS5 Mark IIIでカラーの絵作り。ブログにはこのカラーをアップ。これにFacebook用にiPhone7でもカラースクエアで撮っている。全部で4台のカメラ(笑)。この不自由さというか、デジタル時代のアナログ発想とでもいうのか、我流のこの撮影スタイルの呼吸で、メインのハッセルの作品作りの追い込み作業に効果があるのも事実。35mmフルサイズで広角24mm画角でみるのと中判スクエアフォーマットの80mm標準画角でみる風景は全くの別物で、中判での追い込みは難易度がかなり高いぶん達成感が格段と違う。

親父がスウェーデンから取り寄せた1971年製のHasselbrad 500CとシルバーのPlaner80mm。保証書も持っている。これを1991年ごろに譲り受けた。間も無く親父が購入してから50年。僕が使い始めて30年。二度ほど修理に出して全く問題なく使いこなせている。このハッセルで撮影した作品で、写真集「一年後の桜」「芦屋桜」を出版し、写真展「松韻〜劉生の頃〜」を開催した。驚くほどの長い付き合いとなった。愛用のフジフイルムACROS100がすでに製造販売を終了しており、買いだめてあるフィルムも40本ほどになってしまった。有効期限は今年の秋までなので、今後の撮影計画を立てねばならない。生涯を通した愛機にするので、デジタルバックの購入を考え始めている。

フィルム3本
Mark III 110枚
S110 16枚

撮影合計
ハッセルフィルム132カット
Mark III 撮影枚数742枚
記録用コンデジ 撮影枚数101枚
posted by 川廷昌弘 at 19:11| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月07日

週末は芦屋桜。花見帰郷。

たまたま週末予定がなく、故郷の桜が満開になりそうだったので、久しぶりに桜を撮り歩こうと考え帰郷した。

写真集にまとめた「一年後の桜」「芦屋桜」はハッセルにモノクロフィルムを入れて撮影に没頭してきたけど、愛用のフィルムが製造販売中止となり、これからの作品づくりをどうするかを思案している最中だったので、気楽に撮っていろいろ試してみようと考え、デジタル一眼でカラースクエアで撮ることにした。スクエアの画角はウエストレベルのビューファインダーで覗くことになれていて、モニターで見るのは慣れず最後までしっくりこなかったけど、こんな表現もありかなと感じる2日間だった。

やはり「芦屋桜」で撮った桜が気になり消息を確かめるために撮ったものも多かったけど、桜を撮り歩くことを口実に故郷をくまなく歩き自分を確かめる時間でもあったように思う。桜に誘われるままに歩き回った2日間。

桜は故郷で見るに限ると感じた。桜が忘れてはいけないことを思い出させてくれる気がしたのだ。歩く街並みは今だけど、自分自身は過去に帰っていく感覚。久しぶりに会えた旧友夫妻との人生を語り合う夜。母との墓参りは墓前で語り合う午後。自分のルーツに立ち返り、これからを考える時間を桜が仕立ててくれた。

母と眺めた芦屋霊園の桜は天国の風景だったように感じた。彼岸と違い誰もいない敷地で、先人たちが静かに花見をしているところにおじゃまをしているような空気感だった。

この季節はできるだけ芦屋で過ごしたい。そして次なる芦屋を撮る作品を楽しみながら模索してみたいと思う。

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芦屋川の定番風景

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震災で被災した桜も今は伸び伸び

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実家の前は桜の観光地となっていたので夜桜を楽しんだ

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芦屋霊園の桜




posted by 川廷昌弘 at 22:06| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月01日

病室に満開の芦屋桜

芦屋の病室で一人の女性が人生を終えられた。その手元には僕の写真集「芦屋桜」があったと聞かされた。いつも特定のページを開いていたそうで、まるでそのページを見ながら天国に行かれたようだったという。突然にそのような話を聞いて、驚くと同時に、写真家冥利に尽きると正直に思った。

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その女性は長く寝たきりで、お見舞いに来られたご友人からこの写真集を受け取られたそうだ。どんな気持ちで僕の写真集をめくってくださっていたのだろう。どんな気持ちでそのページを開いてくださっていたのだろう。

この写真集「芦屋桜」は、阪神淡路大震災から20年目に出版したもので、僕にとってはひとつの大きな節目として出したものだった。

1991年に関西支社に転勤し、久しぶりに実家に戻ったことをきかっけに自分探しのために少年の町である芦屋を撮り始めた。そして1995年の阪神淡路大震災でタンスの下敷きになり、破壊された少年の町を人から怒鳴られながら撮り歩き、一年後に咲く桜を見上げたことで自分は生かされたんだと気づき写真を撮り続け、震災から10年後に「一年後の桜」を出版した。

この写真集をテーマに、朝日放送の報道の方から取材をしたいと連絡があり、桜を撮る僕に1日密着して夕方のニュース枠で特集として放送してくれた。久しぶりに桜が満開の芦屋の町を歩いてみて、郷土愛をこの風景で表現してみたいと思って始めたシリーズが「芦屋桜」だ。毎年3月の下旬が近づくと、実家の母に開花状況を電話で聞いたりして、故郷との絆を実感しながら帰省する週末を絞っていき撮影を始めて数年が経った。

ある時ふと、震災から20年の節目である2015年が近づいていることに気づいた。東北の復興支援にも足を運びながら、このシリーズを撮りまとめることで、町を見る被災者の目の変遷や、今は先が見えない被災地の人への応援も表現できるのではないかと考え、この節目に写真集にして残したいと考えた。

町は生まれ変わり若返ったけど、桜は年老いていった故郷。年老いた人が新しい町を横切れば、震災を知らない子どもが走り抜けていく。こうして、町は破壊と再生を繰り返しながら人の暮らしを刻んでいる。そんな芦屋を、桜を通して力まずに自然体で淡々と編んでみたい。そして、桜を愛する女性がフッと胸に抱いてくれるような体裁の写真集にしたい。女性の出版社の社長さんに女性のデザイナー。お二人にそんな依頼をした。「芦屋桜」とは、そんな写真集なのだ。

今日は3月1日。気候変動が進み、日本の桜も3月に駆け始めるようになって久しい。今年の芦屋桜はどの週末が満開なんだろう。久しぶりに満開の芦屋を撮り歩きたいと思う。

さて、この話を伝えてくださったのは、全く別件でお会いする約束をしていた全国コミュニティ財団協会の深尾昌峰さん。深尾さんは「芦屋桜」の表紙にある「川廷昌弘」と、打ち合わせをする「川廷昌弘」とがつながるまでの不思議な体験を語ってくださった。全てを聞いた僕は会議室で不覚にも涙腺が崩壊寸前だった。写真家として死ぬ覚悟がまたひとつできた。写真の道を信じて良かった。ご縁に感謝。

そして、深尾さんからのミッションで、女性が持っていた写真集にサインをさせてもらった。
「この写真集でお花見をしていただき、ありがとうございます。 川廷昌弘」

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深尾昌峰さんと写真集と

posted by 川廷昌弘 at 20:01| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月13日

真冬の桜 河ア晃一さんへ

芦屋の現代作家で甲南女子大学教授の河ア晃一さんが亡くなった。

膵頭部ガン、67歳。しばらくご無沙汰をしていたので、あまりに突然の訃報だった。喪主のご長男から、お亡くなりになった2月11日の夕方メールをいただき言葉を失った。

河アさんが、芦屋市立美術博物館の初代の学芸課長を務められている時に、生まれ故郷である芦屋を撮り始めたシリーズを一方的に持ち込んで、応接室で見ていただいた事からお付き合いが始まった。

2005年に出版した、僕の初めての写真集『一年後の桜』に寄せてくださった文章の冒頭にその時のことを書いてくださっている。

「川廷昌弘が尋ねてきたのは、94年の春だったと記憶する。その時『憧憬』のシリーズのファイルを見せてもらった。初対面。初めて見る作品に対してその時に感じたことは『これが彼の本来の持ち味なのだろうか』だった。ハッセルブラッドで写された芦屋の心象風景は。彼自身の歩んできた生活環境を辿ろうとしているかに思えた。『憧憬』には彼が幼い日から青年期を過ごした芦屋に思いをはせた『なごりのイメージ』があった。初めての席で最後に見せてもらった作品は『憧憬』とは全く別世界の洗練された南房総のカラー写真だった。彼の本来の持ち味はこちらの方にあるのではないかとさえ思った。なぜ彼は私にファイルを見せに来たのだろうか。数多くの写真家、評論家がいる中で、写真に関しては専門でない私に作品を見せに来たのには何か理由があったに違いない。芦屋に育った一人として、地元の美術博物館の一人として、まったくいきなりに知り合うこととなった。」

河アさんは、わかってくださっていた。僕が芦屋の生まれ育ちを、どのように表現するのかを探求したくて、芦屋の出身で作家活動もされている河アさんに半ば強引に見てもらったことを。さらっと撮れる洗練されたカラー作品ではなく、遠回りになるかもしれないけど、表現者として本質的な作品を創作しようとしていた僕の心理を。しっかり見抜いて受け止めてくださっていた。その温もりのような心というか、見守ってくださっている感じが、ファイルをめくる空気感から感じられたことを覚えている。

阪神淡路大震災で被災しタンスの下敷きになった。その夏、河アさんを訪ね、被災地となった芦屋を撮影した作品を持って行き、『一年後の桜』を撮りますと予告した。河アさんは少し考えて無言で何度も頷いてくださったことを覚えている。お互いに被災者であり、河アさんは美術品のレスキューなど活動を展開されていた頃だったと思う。

河アさんが寄せてくださった文章から再び引用する。

「『一年後の桜』というテーマを聞いた時、『そう言えば』と思ったのは被災者だけかも知れない。私たちには95年の桜の記憶がない。」

その後、芦屋の学芸員の方から聞いた話がある。その方も作家活動をしながら、稼ぎとして学芸員をされていた。河アさんが「川廷の生き方を見てごらん。激務の広告会社に勤務しながら故郷を撮って自分を見つめる作家活動をしている。表現者としての一つの生き方だよ。」と言っているから、僕に会いたかったと言ってくださった。僕自身は、表現者としの自信もなく、人生そのものを迷いながら自分を探し続けている状態だったので、褒めすぎと率直に思ったがとても嬉しく励みになった。生き方で言えば、学生時代はテニスで走り回って、広告会社に就職してから写真家を志した僕には、大学はラグビーで走り回っていたのに、学芸課長になって毎年のように大阪で個展を開催する現代作家として、ご自身を追求する生き方をしている河アさんこそがお手本だった。

このようにして、芦屋にルーツのある者同士として共感していただきながら、10年の歳月を見守ってもらえていた。文章はこのような形で締めくくっていただいている。

「あくまでもマイペースで、しかも継続的に撮り続けられた芦屋風景は、いつか歴史を刻む一コマとなるだろう。これからの川廷の作品に、今以上の求心力が生まれてきた時、ここに収められた作品群は、そのプロセスとしての意味を持ってくる。その第一歩が今、提示されたのである。」

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2014年8月3日 2冊目の写真集を相談した日

それからさらに10年の歳月が経ち、芦屋の2冊目の写真集を出版しようと考え、真っ先に河アさんに相談した。震災から20年の節目である2015年に出版した『芦屋桜』である。出版社は、河アさんが長年懇意にされ僕もお付き合いのある藤元由記子さんが経営するブックエンド。もちろん、河アさんに文章をお願いした。

「桜の姿を求めて芦屋の隅々を歩いた川廷が発見したのは、街を見る自身の眼である。」「桜を通じて故郷との結びつきを深めていく姿勢は、自身の仕事とオーバーラップしながら、川廷の写真表現に独自の世界を与えているといえるだろう。」

生き方のお手本でずっと前を走る河アさんから、20年の歳月を経て生き方が見えてきただろうとエールを送ってもらえた。自分の成長も同時に感じることができた。自分らしい写真家としての生き方だ。しかし、ようやく見えてきただけで、大きな成果を挙げているわけでもなければ、評価されたわけでもない。

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『一年後の桜』と『芦屋桜』

そして河アさんは逝ってしまった。この喪失感はとてつもなく大きい。見守ってもらえている勇気と、時々かけてもらえる声によって得られる確信。『芦屋桜』の出版から4年も経っていた。その間、お会いしていなかった。この間に河アさんは病に冒されていたとは知らなかった。僕は失礼極まりない押しかけ弟子だった。

東京での仕事を終えて汗だくになって新幹線に駆け込んだが、すっかり遅れてお通夜の会場に辿り着いた。会場から帰る人もいるが、とても多くの方が思い思いにグループになって語り合っている。きっと多くの人を励まし育てただろうし、多くの人に愛された人だったと思う。実業家で美術蒐集家でもあった山本發次郎のお孫さんという生い立ちを考えると、交流も多彩だったと思う。

僕は一人静かに手を合わせて亡骸にも対面した。言葉が思い浮かばなかった。部屋を出て並んだお花を眺めた。自分の名前があった。とても良い場所でお見送りをしている。たまたまだと思うがご遺族に感謝。言葉にならない想いが伝わったような場所に自分の名前があった。そこで、ようやく想いを言葉に出来そうな気がした。

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2019年2月13日

会場には、河アさんご自身の作品と「具体美術」の研究者として著わした書籍も置かれていた。僕は河アさんは現代作家として逝ったと勝手に思っている。僕も、僕らしい写真家としての生き方をして死にたい。だから、まだまだ自分を追い込んでいく。

ありがとうございました。ゆっくりおやすみください。そして、またいつかお話をさせてください。

河崎晃一様へ

川廷昌弘
posted by 川廷昌弘 at 00:00| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする