2018年08月20日

「自然」という幻想

「自然」という幻想ー多自然ガーデニングによる新しい自然保護ーを読んだ。
あくまでも個人的な感想文として記します。

僕は、コミュニケーション会社に勤務する人間として、環境問題を地球温暖化から入門し、続いて生物多様性という概念を知り、それを俯瞰して人間の生活基盤でもある日本らしい自然共生社会への理解を普及啓発する活動に取り組んできた。それをベースにSDGsにも取り組んでいる。そんな活動の中で日本における外来種の基準となる時期を訪ねても周辺にいる人で明快に答えてくれる人はいなかった。

湘南に新居を建設する際に、猫の額程度の庭だけど高麗芝・浜木綿・黒松を植えたいと考えた。芝生は、実家の庭でおじいちゃんがいつも草抜きして、芝刈り機のガラガラという音が懐かしく、裸足でチクチクとした感触が嬉しくて遊んだ経験が忘れられない。浜木綿も実家にあり、最初に建てた鵠沼海岸の庭にその球根を植えたら成長してたくさんの球根ができたので、3代目となる苗を植えることがミッションと感じていた。そして、この地域の景観を支える黒松を我が家にも植えることで景観の連続性の一助になればと考えた。僕にとって原体験であり原風景であり記憶の庭の世界。そんな話をある人たちにしたら、芝生は外来種だからダメだ言われたことがある。

生物多様性という概念を伝える活動をしていると、日本では人の手がどこまでも入っていることに気づく。そして、ある時にこの活動のゴールは、目指すべき姿はなんだろうと当たり前のことに気づいた時に、多くの人が熱心に取り組む自然保護の話にゴールの姿が見えず、むしろ精神論に思えて、国や企業の助成金は何を目的にしているのか、とても責任が重いと改めて思い始めていた。

そんな出口の見えない状況の中で、僕に新しい考えを授けてくれた人が2人いる。一人は林業家の速水亨さん。「林業家は森とは言わず山という。山では魑魅魍魎が跋扈し八百万の神がおわす。生物多様性だけでなく万物多様性が育まれる。」生態系サービスを生業としている人の言葉には血と肉があり目的もゴールも明確だった。そしてもう一人が岸由二さん。慶応大学名誉教授だが、生涯を自分の生まれ育った流域を俯瞰して行動する人であり、その経験から生まれ出た「流域思考」という言葉は、自然共生社会を構築する都市インフラもデザインすることができるものだった。気候変動の適応策という言葉も後付けに聞こえるほど理にかなった思考だと感じた。お二人とも人間の営みそのものとして「自然」を語っている。僕には教科書だった。

そんなことを知ってから南三陸の人々に出会った。林業家、製材業、漁師、自然教育などを生業とする人たちは、生物多様性の保全は生業で実践する哲学者だった。地域にはそんな知恵が生業が当たり前に存在しているが、例えば2005年の国勢調査の数字で見ると15歳以上就業者数(6,151万人)の中で第一次産業従事者は315万人で5.1%と、都市生活者が圧倒的に多い今の日本社会で生業を通して自然を守ることを考えることは難しく、暮らしと自然、さらに自然保護活動はつながりにくいのは仕方がないようにも思っている。僕自身も曽祖父、祖父、父と4代目の都市生活者である。

さて、本題に入るが、岸由二さんが、小宮繁さんという方と翻訳した本が届いた。小宮さんはステージャの「10万年の未来地球史」という本を訳した人で個人的に気になっていた。読めば読むほどに痛快なほど腹落ちしていく。モヤモヤ感を吹き飛ばしてくれる大胆に断定的にストーリーは進んでいく。このスケール感、ダイナミズム、地球のサイクルで「自然」を語ってくれることで、ようやく理解が行き届く。

常に「自然」は変遷しており、どのような状況にも適応していく進化をしている。特にこの日本列島に住んできた先祖たちは身をもって知っていたはずだ。山や海が暴れて暮らしを脅かされ、「自然」に対する畏敬の念を抱きながら、それでもこの列島で「自然」と共に生きてきた。どんな状況にも適応する本当の強さである「しなやかさ」を身につけてきた。これを英語では「レジリエンス」と言うのだと思う。ところが今の日本社会は、この「レジリエンス」を「強靭さ」と訳す。いつからこんな浅はかな感覚を身につけてしまったのか。よほど、この著者であるエマ・マリスの方が「しなやかさ」を理解している。

この本は西洋文化の中で育まれた議論ではあるが、日本で自然保護を生業にしている人にこそ素直に読んで欲しいと思う。これを読んで日本における自然保護の向かうべき道筋を本気で考えて、地域経済が循環する社会をデザインして欲しいと願う。

SDGs「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」は、タイトルが「私たちの世界を変革する持続可能な開発のための2030アジェンダ」であり、「このアジェンダは地球と人間と繁栄のための行動計画」だと前文の冒頭に書かれている。そして、「我々はこの共同の旅路に乗り出すにあたり、誰一人取り残されないことを誓う。」と言い、「この目標とターゲットは統合された不可分のものであり持続可能な開発の3側面である経済・社会・環境を調和させるもの」だと言い切っている。「自然」は、「経済」と「社会」との調和なしに取り組めないのだ。

この本でポイントに感じた部分を抜粋すると、

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〜〜生態学や自然保護運動はなぜ人間を排除したのか。有史前に生じた人間由来の環境変化を示す証拠が発見されたのが比較的最近だったことと、人間とその仕業から逃れるためにウィルダネスを目指す傾向があり、その結果、自然の概念と無住のウィルダネスという概念が結びついたため〜〜

〜〜作家ビル・マッキベンは「自然の終焉」で、「自然の定義=人間社会からの分離」とし、「私たちに唯一できるのは、放置してさらに悪化させるよりは、悪化の程度を抑えることだけである」〜〜

〜〜新しい生態系(novel ecosystem)=外来種が支配する生態系。移動と進化と新たな生態的関係の形成に忙しいのは世界中の外来種、蔑視される今日の侵入者たちにも、未来の生態系のキーストーン種となる可能性は十分にある〜〜

そして、岸さんのあとがきからも気になった部分を抜粋すると、

〜〜マリスが重視するのは「価値ある自然」「保護されるべき自然」と人々が了解する領域をめぐるビジョンの転換。「手つかずの自然」こそ価値ありとされた伝統的なビジョンの中の「自然」は、今となっては「幻想」だと自覚せざるを得なくなった。(中略)今や「自然」はすべての人の干渉・管理のもとにある「ガーデン」となった〜〜

〜〜賑わう生きものに優しく、生態系サービスが機能し、過大なコストを避けられるなら、自然保護の目標は多様でいい。代理種を利用して過去の生態系の模倣を目指す、温暖化の速度に適応できない種の管理移転を進める、在来種の厳正保全のために外来種を徹底的に排除する方式も局所的にはあっていい〜〜

「自然」という幻想ー多自然ガーデニングによる新しい自然保護ーより。
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岸さんのあとがきによると、このエマ・マリスは、「新しい自然のビジョンを丹念な取材に基づいて紹介し続ける新時代の卓越した環境ライター」とある。この本を日本に紹介してくれた岸さんに改めて感謝をお伝えしたい。

現代ならではの自然保護、SDGs時代の自然保護を多くの人と考えていけたら嬉しいです。ぜひ読んでみてください。スカッとしますから。

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posted by 川廷昌弘 at 22:49| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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