テニスのために生きた人だった。社会貢献という言葉は、父には陳腐だった。テニスのために捧げた人生だった。
昭和8年に生まれ、芦屋の自宅にテニスコートがあるという恵まれた環境で育ったが、厳しく躾られた父だったと思う。幼き頃の写真の父の表情は硬い。テニスコートで祖父と収まる写真は特に表情が硬い。父から祖父祖母と兄弟達の昔話をほとんど聞いた事がなかったように思う。そして戦争では岡山の備中高梁に疎開した。戦争での苦労話は聞いた事はなかったが、家族で一度、父に連れられて疎開先に行った。僕には岡山の清流のある風景への旅行だったが、当然ながら父はこのような土地へ疎開した事を、同じ年の頃の子ども達に何かを伝えたかったのだろう。
父の口癖は「実際問題」。話はいつも現在進行形。安っぽい自慢話をする事はほとんどなかった。次から次へと新たな話があり、次から次へと取り組みが進んでいく。立ち止まる事がなかった。自慢するならこれからだったのだろう。会社員だったら役員にでもなって勇退して、語る時間を過ごす年だったはずだが、生涯現役で生きた人だった。しかし会社員だったら、こんなスケールを持つ男にはなれていないはずだ。極めて限られたチャンスをものにした男だったのだと思う。
幸せな人生だったはずだ。
多くの人とチャンスに巡り会い、多くの人に支えていただきステップを刻んでいったはずだ。もちろん多くの人を支えただろうとも思う。しかし何よりも、父の人生は母の存在なしに、なし得なかったのは誰もが知るところだ。海外渡航が、まだまだ庶民には遠い存在だった昭和40年代から世界中を飛び回った。それもテニス写真家として。そんな商売に勝機があるのかなんて、誰も思えない時代ではないだろうか。しかも、子ども3人抱えた母を、両親も住む自宅において一人で飛び回っていた。どれほどの覚悟とどれほどの夢を持って、飛行機からの景色を眺めていたんだろう。そんな話すらした事がなかった。そんな大人の男同士の裸の話をした事はなかった。
もし悔やまれるとしたら、そんな当たり前の男同士の会話があまり出来なかった事だ。普通の男として、素っ裸になって語り合う時間があまりにも少なく短かった。
しかし、とんでもない背中を見せ続けてくれた事は、貴重な親子関係だったように思う。きっと、父は、僕らの父親というよりも、世界中でテニスをするたくさんの子ども達の父親、そんな役割を与えられた人だったのだと思う。
僕が知る限りの父の行動を一般的な言葉で言うと、
テニスを多くの人に楽しんでほしい。
テニスができる環境にしてほしい。
テニスを通じて仲良くなってほしい。
テニスを続ける事で健康で豊かな人生を送ってほしい。
テニスを極めることで多くの人に感動を与えてほしい。
テニスを応援することで多くの人を幸せにしてほしい。
テニスを通じて世界が平和であってほしい。
このような感じではないだろうか。
そして、
すべてはテニスを愛する人のために。テニスで世界を平和に。
通夜と告別式で父のスライドショーを流した。「芦屋からテニスを」「テニス写真家で世界へ」「テニス大会をプロデュース」「世界の友人と」「日本の友人と」「テニスでアジア外交」「オリンピックにテニスを復活」「数々の受賞遍歴」「母とともに」というテーマで全71枚に絞った。弟と妹と3人でセレクトしパソコンで編集した。BGMにドビュッシーの「月の光」。尺がぴったりだった。
ここで特に記しておきたいのは、1984年3月に中国の昆明で、「中国 VS 韓国」のデビスカップを父が中心となって実現したこと。まだ国交が正常化されていなかった両国の選手が、スポーツマンシップに則って戦ったのだ。始めは緊迫した雰囲気だったが、懇親会では両国の選手や関係者達が何度も杯を掲げた。そして歌った。
これは母から聞いた内容だが、普段は絶対に歌など歌わない父が、母の手を引いて立ち上がり、「幸せなら手をたたこう、幸せななら態度で示そうよ、ほらみんなで手をたたこう。」と母と向き合い手を叩き合いながら日本語で歌い始めた。この歌がスペイン民謡である事を、父が知っていたのかどうかを確認する事はもうできないが、両国の選手や関係者も耳覚えがあったのか、みんなが立ち上がって同じように手や肩を叩き合い、飛び上がり合って盛り上がったという。すべての歌詞を覚えていなくとも、日本語で歌っても、これならアドリブが効く。何と素敵なセンスなんだろうと、大学生の頃に聞いた記憶がある事をアルバムを見て思い出した。
とても意義ある大きな仕事、気の利いたセンスと演出。これが僕の大好きな父の姿だ。
告別式の出棺の際、父にウィンブルドンのブレザーとネクタイを着けた。そして、今年のウィンブルドンからの招待状を胸に。もちろん今年のプログラムも持たせた。天国に行く前に、今年のウィンブルドンを観戦してから行ってもらおうと家族で決めた。もちろん、大会そのものは終わっている。しかし父ならきっと見れるはずだ。日本人でただ一人のウィンブルドンの名誉会員だから、、、
父が大好きなテニス。多くの人の手によって新たな時代に入っている。弟はテニス界に身を置き、父の背中を多くの人と一緒に追いかけている。僕はテニス界には身を置かない人生を選んだが、父のように人のため世のためになる事を、これからも生業にして、誰も成し得ていない事を成したいと、父に誓う。
テニスはこれからも世界の平和のために存在し続ける。少なくとも私たち家族は、そんなテニスをいつまでも愛していたい。
父は戒名を自分でつけていた。「公徳院榮世球廷居士」。現世の夢を天国にしっかり持っていった。川廷栄一とはそんな夢見る男なのだ。
お久しぶりです。
FBの深津さんの投稿で知りました。
いいですね。感動しました。
私の父は30年前に他界しましたが、こんなにおやじのことを語ることはできません。また昨年母を亡くし、ブログを拝見し思うことがたくさん出てきました。私たちの年代は特に父親との距離感がしっかりあって、その距離感をお互いが縮めることなく適度な緊張感があって心地よかった気がします。
とはいえそんなことを思ったのは随分大人になってからだと思いますが。(笑)
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
川廷栄一氏は私の祖母美枝の実兄の長男さんにあたります。そんな関係で私にとっては会ったことさえないのですが、いくつになられても「栄ちゃん」と言ってしまう方であります。
よしえおばさんに抱かれた、まだ栄ちゃんが赤ちゃんだった頃の写真を見たことがあります。
栄ちゃんが生まれた頃は多分祖母は未だ嫁入り前で、芦屋の実家に居たんだと思います。
私が祖母の家に泊まりに行った際、時折昔話として川廷のお兄さん達、お姉さん達の話を聞かせて貰ったり、唯一の弟のけんちゃんの話しを聞かせて貰ったりしたのが懐かしいです。
実家のテニスコートで祖母とけんちゃんの写った写真も見たことがあります。
また、芦屋の家の庭にある大きな灯籠がこけたら危ないから、子供達は近づいてはダメ、と言われていたのも祖母や母から聞きました。栄ちゃんも言われていたんでしょうね。
戦争中は芦屋の方が爆撃にあわないだろうからと、祖母は実家にお琴とか置いてたらしいんですが、伊丹より芦屋の方が戦火にあったらしく、お琴燃えちゃったの、と聞いた記憶もあります。
栄ちゃんはそんな祖父母世代からも可愛がられていた、そんな風に聞こえていました。
芦屋の祖母の実家をもう大分前ですが歩くことがあり、つい過去に思いを馳せ、立ち止まっていたこともありました。
ちょっと懐かしくなってお名前で検索したらこのブログを見つけたので、失礼かとは思いましたがつらつら綴ってしまいました。お許し下さい。
最後になりましたが、心より川廷栄一氏のご冥福をお祈り申し上げます。
たまたまブログを発見したので書き込みました。神戸の水田(旧姓:布井)と申します。
お父様とうちの父は鳩子の関係と聞いていますが、小さい頃、祖母と父と妹がそちらにお世話になっていた時期もあり年も近いので一緒にご自宅でテニスをした話をずっと伺っておりました。
訃報を知った際は父も入院中でしたので私が代わりにご挨拶だけ行かせていただき、弟さまにご挨拶をさせていただきました。
時々、芦屋を通る度に”栄ちゃんに会っていこう!”といきなり言うので毎回止めていましたが、会わせてあげるべきだったととても後悔しました。
その父も10月に他界し、今はお父様と再開を楽しんでいると思います。葬儀の際にはお母様からもお心遣いをいただきました。改めてお礼を申し上げます。
古い話ですが、うちの祖母の葬儀には川庭のお婆ちゃまにもご参列いただき、皆で”お姫様”とお呼びした事を今でも思い出します。
先ほどブログを見てそのような事を思い出すと共に父を忍んでおります。
そのようなひと時をいただきました事を感謝いたします。ありがとうございました。
川廷栄一さんがpなくなりになりましたことは新聞紙上で存じ上げておりました。
私は県立芦屋高校1年生の時に川廷さんと同じクラスでした。5月ごろだったかと思いますが、私が校庭でお遊びテニスをしているのをご覧になった川廷さんが「軟式庭球なんかしないでぜひ硬式をやらないか。僕の家にはテニスコートもあるし練習も十分できるよ」と誘ってくださいました。とても気持ちは動きましたが、私は大所帯の合唱部の一員として責任ある立場にいましたので運動部との掛け持ちは不可能と思いお断りしたことがありました。
川廷さんは高校時代も大学に進学されてからも大活躍をされていました。テニス写真家として世界を飛び回っていらした頃も、芦屋にはいらっしゃらないかもとの思いつつ同窓会の案内を差し上げましたら幸運にもすっせき指定くださったこともありました。
新聞紙上で訃報を拝見した時も高校時代のことがいろいろ思い出され、まだおやりになり残したことがおありなのにと悲しい思いをしました。芦高の同級生とも川廷栄一さんの思い出を語り合っていました。
偶然にもご令息のブログを拝見して懐かしさに耐えきれずお便りさせていただきました。
川崎英子 2015・5・10