タンスの下敷きになった朝。
あれから18年経ちました。
阪神淡路大震災。
それまで撮り続けていた生まれ故郷である芦屋が瓦礫の町になり、一年後の被災地に咲く桜に勇気をもらい、人は年老いたけど、様々な人災を経て、平成の町へと若返る様子を撮影し続けて、10年経った2005年にこの写真集を出版しました。
今日は朝からお昼まで、持続可能な地域づくりを行う人材育成がテーマのESDテーマ会議総括会合での発表。夜は専修大学ソーシャルビジネスアカデミーで、多くの志を持った方々への講義。
きっとあの経験からいつの間にか目覚めたソーシャルモチベーションをエネルギーに、自分探しを続けています。
今日も一人でも多くの人と想いを共有して、自己を磨き続けたいとの気持ちを新たにした朝です。
皆さんこれからもよろしくお願い致します。
=====
Facebookに上記の書き込みをしたら、エコツーリズムのスペシャリストで、阪神淡路大震災のレスキュー活動や、東日本大震災でRQ市民災害救援センターを立ち上げた広瀬敏通さんから、このような書き込みをいただきました。
「あの瞬間に人生が変わってしまった人がたくさんいて、それは3,11の東北でも起きました。川廷さんはプラスのエネルギーを燃やしたけど、生き残ったことを悔やむ人も多いことは事実。世の中がもっと前向きになれればこの人たちも救われるのに、といつも思います。」
これに返信を打ち始めたら、突然、思い出した事があって、以下の文章をFacebookに書き込みました。
=====
広瀬敏通さんへの書簡
広瀬さん、僕のFacebookの117へのコメントをありがとうございます。今はこうやってポジティブにエネルギーを燃焼させる事ができていますが、実は、僕も震災直後は、家の前に横たわる親子の遺体や、助けに入ったお向かいさんが壊滅的で自衛隊を待ったりと、とんでもない無力感に襲われ途方に暮れ続けていました。
しかし、もしかしたら写真を撮る事で、自分にも何かできるのではないかと、とにかくカメラを持って壊滅した生まれ故郷を歩き始めたのです。もちろん同じ被災者でも程度が全く違いますので、「おまえが撮った家はわしの家や!フィルム抜かんかい!」と怒鳴られたり、「さっきからなにやっとんや!」と後をつけられて殴られたり、どこに向けていいのか判らない憤りがありました。それでも、自分には被災者として撮影しなければならない使命がきっとある。と何とか気持ちをつないで撮影していました。
震災から数日経ったある日の夕暮れ、西日に照らされた道路で、路面が割れてきれいな砂とともに、いまだに溢れる水道水をしゃがんで撮っていたときに、アタマの上から、「あなたの行動はきっと意味があると思いますので、がんばってください。」と、そんな声をかけるような雰囲気ではないと言っては失礼ですが、年上の男性に声をかけられました。目線が一瞬合ったかどうか、、、僕は「ありがとうございます。」と大きな声でお礼を言ったら、涙声になってしまっていました。
そんな、小さな小さな人との交流が、実は大きく永続的なエネルギーを生む事も出来るんだ!という事を、広瀬さんが書き込んでくださったコメントに返信を書いているうちに、忘れていた事実が克明に蘇り、あの瞬間だったんだ!と、18年を経て気がつきましたので、改めて書き込む事にしました。
心より感謝申し上げます。
そして、必ず何かを気づかせてくれる117にも。
=====
そして、この書き込みに対して広瀬さんから以下のコメントをいただきました。
=====
「川廷さん、ありがとうございました。自分なりに理解できた気がします。災害は無慈悲で、しかも悔しいことに、年寄り、貧乏人というような被害の偏りが著しい傾向があります。そして今回、取り上げた話題は、東日本大震災でも顕著だった『生き残った人々の無力感・喪失感』の大きさです。何故ぼくたちの世界は、これら無慈悲で大変な目に合った人たちに対して、『生き延びてよかった』と言わせられないのかという思いがとても引っかかっていました。川廷さんの行為の意味がもっと広がるといいなと思います。」
=====
今年の117の大きな大きな収穫です。
出社する車窓には残雪、、、