遺影にお線香をあげて、思い切って故人の書斎の椅子に座り、愛用されていたMacを操作しました。
荒井さんは、昨年の10月に、最後の力を振り絞るように被写体である屋久島に単身乗り込み、1週間の撮影を敢行され、多くの作品を持ち帰って来られているはずなのですが、ご家族や親しいお仲間にもそのありかが判らないのと、それ以前に撮影された屋久島の作品もあるのですが、どれがいつ撮影されたものなのかが特定できずにある状態。これを解明するために作業をしました。
作品は赤外線効果で撮影され、写真の元データは赤やピンクの画像。これをPhotoshopを使って、トーンカーブをご本人にしかわからない加減で操作した上で、モノクロ反転させたものを原稿とし、選びに選んだ写真用紙と、相性の良いプリンターでなければ表現できない反射原稿。
荒井信雄さんの作品は、誰にもマネの出来るものではなく、とても生徒さんと呼ぶには申し訳ないほどの「想い」と「技術」を持った「写真家」なのです。
遺作となった最新のデータは、意外と簡単に見つかりました。作業途中のようにデスクトップに貼付けられた様々なデータから、これではないかと思うものを集め、新たに作成したフォルダに移動させて、日付順で一覧してみると判別できました。同じ元データから加工された写真が複数存在し、様々な試行錯誤、荒井さんの葛藤もナマナマしく感じる事ができました。荒井さんの体温を感じる時間でもありました。見つかったデータは全77枚、オリジナルと思われる元データは52枚存在していました。
2011年10月19日、撮影取材の1枚目は飛行機から撮影された噴煙をあげる桜島です。人工物も写っているはずなのですが、まるで原始のままのランドスケープに見えます。そして最後の写真は、10月25日14時台、屋久島の原生林の写真です。どんどん原生林に入り込んで行って、何かある領域に辿り着いたようなプロセスを感じます。ご家族のお話では、撮影の半ばで、宿舎の従業員の女性が年配の荒井さんを気遣い、一日撮影に付き合って神社や海岸にも足を伸ばしたとの事。データを見ると、確かに原生林ばかりの作品の中に神社と海岸の写真が入っています。この日付が10月22日です。荒井さんから、ご家族や後藤さんが聞かれたバラバラのお話が、写真データの存在によって、荒井信雄さんの最後の屋久島撮影取材紀行が、一つの物語として目に浮かぶようによみがえり、編み上げられていきました。
昨年の12月25日に開催されたクラブの定例会で、「ぜひ観てもらいたい新しく撮った作品があるのです。」と少し焦ったような感じで、荒井さんから声をかけられました。この日はその後が忘年会でしたので、「後でゆっくりみましょう。」とお答えして、忘年会の会場に向かいました。今、記憶をたどって思い浮かべると、会場では他のメンバーから少し離れたところで、僕は荒井さんと2人であぐらをかいて向き合い、その迫力ある作品がおさめられたファイルを息を飲むようにめくり、荒井さんが体調を崩されている事を聞いていたので、「これを撮ってこられたのですか?」と聞いたら、一人で屋久島に向かったこと、とても集中して撮影できたことなどを熱く語られて、これで何とか形にならないだろうかという相談だったと思います。それに対して僕からは、「これはしっかり構成して写真展をしましょう。僕も関わりますから実現しましょう。作品は他にもあるのでしょう。全部を観たいです。この内容なら写真集も考えましょう。」と言って激励した記憶がよみがえります。それまでチカラのある眼差しで僕を直視されていたのですが、少し表情を崩し笑顔を浮かべつつ、確か「もっとやっておきたいのです。」というような事を何度もおっしゃって、気持ちを新たにされたように何度もうなずかれたのが思い浮かびます。しかし、その後しばらくして入院されました。
この日、僕が観たプリントは、荒井さんが僕に見せるのだとご家族に言いながらプリントされたもの。そして、その日からは僕と約束したから、まだたくさんやることがあると言って、入院までmacに向かわれ、病室にもデータを入れたmac book proを持ち込まれたとの事。残されたデータを見ると何枚かが最終修正日が今年の1月1日というものがありました。そして、病院で厳しい状態である事を通告されたあと、Dフォトクラブの盟友である後藤隆彦さんを呼ばれ、大切な写真は「幻影」という「フォルダ」にあると伝えられたことを、後藤さんが記憶されていました。しかし、その「フォルダ」をパソコンで探しましたがみつからず、どこだろうと思案しながらふと足下を観ると、「幻影」と書かれた黒い「フォルダ」(実物の作品を入れるボックス)があります。その中を観ると、多くの屋久島の作品、その他の作品がテーマ別に整理されていました。
「これだ!」
ご家族に、「写真データとこのフォルダを預からせてください。僕が責任を持って整理します。」と申し出てお宅を後にしました。その後、一人ファミレスに陣取り、データを眺めて目を慣らしてから、現物の「フォルダ」に入ったプリントを一枚一枚データと照合しながら確認、いや荒井さんと対話しながら確認していきました。プリントの質、黒の締まり具合、覆い焼きの出来不出来、その結果、ご本人が一番好きだったペーパーに完成度高く出力された遺作は29枚存在しました。僕は、この一部をご本人から直接見せてもらっていたのだと理解しました。過去の屋久島の秀作も入っていました。
4月の荒井さんのお通夜、僕は仕事を終えて向かったため遅れて会場に着き、通用口から入れてもらいました。きっとお疲れでご迷惑だったと思うのですが、ご家族と1時間以上もじっくりお話させていただきました。僕がこのクラブの講師をしているからわざわざ生徒になって通ってくださっていたこと、僕の写真集を眺めてくださっていたこと、そして何より亡くなる直前まで、僕との約束である写真展や写真集に向けてまだやるんだと言っていたんですと聞かされ、僕は荒井さんが眠る棺を抱き号泣しました。もっともっとお話がしたかった。僕が実現しますからと。
荒井信雄さん。そのお気持ちに絶対に応えます。
まずは善行写友会のグループ展「四季の鼓動」での展示。この展示はできれば遺作から5点、そしてクラブでポートレイト撮影教室を実施した際に、メンバーが撮影した荒井さんの在りし日の姿を展示する事を考えています。
「幻影ー原生林ー屋久島」荒井さんの「フォルダ」のタイトルです。この写真集の出版に向けては、新年早々から動きます。個展も考えていきたいと思います。
「荒井信雄」という写真家を、これから皆さんに見ていただこうと思います。

ご家族が生前のままにされている荒井信雄さんの書斎デスク

フォルダ「幻影」