2016年10月10日

熊楠を思ふ旅

本宮に大竹哲夫さんという人が住んでいる。知の巨人である南方熊楠に魅せられて想いが募って熊野に移住し、自己表現を生業にしながら熊楠のメッセージを今に伝えている。

100年も前に、「自然生態系のエコロジー」は「社会システムもエコロジー」として共存させることで人間の「精神のエコロジー」も豊かに保てると言い、風景と空気は地域経済に豊かさをもたらすとも言った熊楠。これをとても判りやすく現代語訳して情報発信しているのが大竹さんだ。

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大竹哲夫さん

9月に盟友の水野雅弘さんの紹介で大竹さんの講義を聞いて判りやすい話に共感。水野さんとは、動画をダウンロードしながら楽しめる、熊楠の縁の土地を訪ねるARマップを作ろうと動き始めたところだったのだが、なんと大竹さん、熊楠が熊野をガイドする本の原稿を書き上げようとしているとのこと!添える写真はあるのか聞いたら、これからだとのことだったので是非ご一緒したいとお願いした。

そして、この3連休を活用して第1回目の撮影と相成った。

4時半起きで、羽田空港7時25分発に乗って南紀白浜。予報は雨と曇り。雨の中を駐車場に移動し大竹さんの車に乗り込んで、最初の撮影ポイントである白良浜から眺める熊野三所神社に着く頃には雨が上がり車を降りたら強い陽射し。

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熊野三社神社

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昭和天皇の御座船

ここには熊楠が昭和天皇にご進講をした時の御座船が安置されていたり、斉明天皇の腰掛け岩がご神体だったり開始早々ボルテージが上がる。熊楠の活動の起点ともなった神楽神社日吉神社。突然の通り雨に参道が輝き写欲がそそられる。日本のナショナルトラスト運動の発祥の地となった天神崎では熊楠の愛娘の文枝さんがこんなエピソードを言い残している。「今のうちになんとか県庁に働きかけ、天神崎海岸を保護地区に指定しなければ必ずゆくゆくは別荘用地として不動産業者に買収されることは当然起こり得ることと憂いて地元の人たちにもよびかけましたが、また南方先生の十八番が始まったと一笑に付されました。」(「父 南方熊楠を語る」日本エディタースクール出版部)熊楠の先見性が垣間見えると同時に、そんなことを家族を通して伝え聞くのは素敵だなと幸せな気持ちになる。それにしても大竹さん、その地のいかなる熊楠エピソードでも頭の中の引出しに入っているようだ。

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天神崎にて

多くのシイで鬱蒼とする神林が残る伊作田稲荷神社は、京都の伏見稲荷よりも歴史がありご神体を見ようとした者には天罰が下ったという逸話があり、怪しい顔つきで鎮座する狐の視線にドキッとするような雰囲気が漂う。赤いのぼり旗がはためく熊楠が守った神林がある西八王子宮や白いのぼり旗が迫力の八立稲神社。今年もこうして地域の人たちが集まって気持ちの良い笑顔で祭りの準備をしている。神社合祀で廃社された出立王子にものぼり旗が立ち提灯が並び地域の人の信仰心に心打たれる。今の日本で一番大切な自分の住まう地域の記憶を残すこと。この地域にこうして祭りが残ったのも、神社合祀の名の元に行われた国政の戦争借金の返済目的と、自治体の私利私欲にまみれた政策方針への抵抗勢力となった、熊楠を始めとする地域の有識者たちの先見性と胆力。

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西八王子宮

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八立稲神社

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伊作田稲荷神社

今は高山寺で、主治医だった喜多幅武三郎や、牟婁新報社主の毛利柴庵たちの墓に囲まれるように熊楠の墓もあり、この世から離れても仲良く連れ添っている素敵な面々なのである。なんて羨ましい人生なんだろうと思いながら墓石に向き合った。ところで、年中山野を駆け巡った熊楠さん、広葉樹林にはとんでもない数のヤブ蚊が群生していて視界が塞がるのではと思うほど一斉に飛びかかってくるのを、どうやって避けて小さな小さな命を静かに観察できたのか教えてくださいと聞いてみたが、愚問じゃと一蹴されたのか風も吹かず反応はなかった。

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高山寺

日没は、当時は皇太子だった昭和天皇に無位無冠の熊楠がご進講を行った神島を、対岸の鳥の巣から眺めるという念願を叶えて終えた。熊楠によって今に生態系を残し、天然記念物に指定され立ち入りが制限されているため上陸は希望として胸に。島にはご進講のあとに建てられた碑に熊楠の歌が刻まれている。「一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでまし森ぞ」

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神島

日没後、1時間に38mmという突然の豪雨の中を移動し、車から降りたら傘はいらずで、水野雅弘さんと合流し3人で田辺の味光路へ。水野さんが提案する「ジャパニーズ・エコロジー」を熱く語り合う時間。100年も前に、この地を中心にした南紀の自然資源を資本と考え、地域が自立した経済で生き抜くことを示唆し続けた熊楠。大竹さんや水野さんがそれをカタチにすることを、応援する役割を担いたいと気持ちが入った時間でもあった。

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ジャパニーズ・エコロジーを語る夜

2日目の朝、目が覚めたら大竹さんが「やはり神島が見えますよ」と笑顔で窓を指さした。高いフロアにある部屋に投宿していたので、天気予報通り雨が降っていれば昭和天皇の気持ちになって写真が撮れると考えていたが、これも見事に叶った。
「雨にけふる神島を見て 紀伊の国が生みし南方熊楠を思ふ」
この歌は、33年前に出会った熊楠へのお返しとなるような歌を昭和37年に昭和天皇が詠んだもの。天皇が個人の名前を歌に託したのは唯一と言われている。大竹さんのウェブサイトでは時空を越えた二人のコミュニケーションと伝えている。

雨の中を内陸に向い上富田町の八上神社へ。ここは中辺路にある王子。合祀で廃社されてしまったが地元の人たちの熱意で7年後に復社。鬱蒼とするスダシイの森に樹齢500年の杉が鳥居の横に立ち境内には西行の歌碑。熊楠はこの歌を手本に神島の石碑に刻まれた歌を書いたと言われている。続いて向かった須佐神社。やはり熊楠が大切にした場所で、こんもりした神林の中に佇む。

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須佐神社

次は海に向かい、熊野権現が本宮に落ち着く前に鎮座しようとしたが波の音が聞こえるために、1日で去ったという伝説に従って明治29年に建てられた熊野神社へ。参道には桜が植えられ大正時代には桜の名所となり近隣から多数の人が訪れたと言われているが、戦後の食糧不足で伐採され再び桜の宮へと地元の人が植樹して守っているが、雨に濡れる今日では当時の賑わいは想像しにくい。近くには、合祀されたものの住民が交渉して復社した金比羅神社。江戸時代に作られた味わい深い狛犬が雨の中を静かに鎮座していた。

国道42号を一気にすさみ町に駆け抜け、周参見湾に浮かぶ稲積島に到着。ここも熊楠が保全に協力した場所で今は暖地性植物群落として国の天然記念物に指定されている。この日はたまたま周参見王子神社の秋祭りで下地地区の神輿が稲積島に向けて御仮屋に置かれていた。14時から再開するらしいとの事でお昼を食べながらしばし待っていると、時間を過ぎたあたりから集まり始め最後の集団に千鳥足の神主さん。ボチボチと神事が始まったが動くたびにフラフラして氏子さん達は大笑い。写真を撮っている人に話しかけたら、毎年この調子でみんなこれも楽しみにしているとのこと。祝詞も時々声になるが何を言っているのか言っていないのか。お祓いも左右に動くたびにフラフラし氏子さん達は大爆笑。何ともほのぼのとしたお祭りで笑い過ぎて涙を流しながら撮影。大竹さん曰く「氏子さん達が楽しそうにしていることが神様の楽しみでもあるのだと思う。」熊楠もこういった地域の人との交流を楽しんでいたのだろうな。

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稲積島をバックに周参見王子神社の祭

とても清々しい気持ちで古座川へ。ここでは南紀熊野ジオパークガイドでエキスパートの神保圭志さんが待っていてくれた。古座川は祓い川とも呼ばれ、熊野特有の自然を神とした社のない古代神社というか無社殿が多い。まず訪れたのは島がご神体の河内神社。心を込めて島を撮る。ここで車を止めて少し歩くと、少女伝説の少女峰の少し上流で、弘法大師伝説のある田んぼを抜けたあたりに月の瀬という開けた場所がある。ここは古座川に月影が映る絶景を楽しんだ場所。その対岸にあるのが無社殿の祓の宮。大竹さんのお気に入りの場所で、グッとくる神聖なる場所。語り継がれる歴史。昔から人々に敬われ大切されてきた場所は、とても小さな土地でひなびた場所だが地力を異様に感じる。それにしても少し歩くたびに逸話のある場所が点在している恐るべし古座川

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祓の宮

明治政府によって強行された神社合祀は、一町村に一社という基準に従い全国で20万社から7万社まで激減。三重県では90%の神社が合祀され、次いで和歌山県だったと言われ多くの地域の記憶が消滅した。この古座川流域では粘り強く抵抗した歴史があるという。熊楠がこの地を訪ねたのは合祀が始まる前だったようだが、地域の人々との交流があって熊楠の精神が活かされていたらと勝手な想像を楽む。

歴史から植生まで縦横無尽に語る神保さん。神保さんのポートレイトを撮って再会をお約束し、急ぎ車に戻り大急ぎで一枚岩に向かう。日没ギリギリに到着し赤く染まる空を写す圧倒的な大きさの一枚岩を無事撮影。どんどん演技する空に従って表情を変える一枚岩。撮影の醍醐味を味わって印象深い一日を終えた。

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神保圭志さん

古座川沿いの旅館でグッスリ休み快晴の朝。回船業で栄えた名残を、街並みや石垣に感じつつ歩く。鳥居も社殿もない貴重な無社殿の神戸神社や、明治時代の青年会「互盟社」の建物などが点在。快晴で透明度が高い空気。多数の訪問先があるため先を急ぎつつ漁師町の印象も撮影しながら那智勝浦へ。

到着したのは補陀落山寺。隣にはかなり古い社殿の熊野三所大神社が大樹の深い影の中に神々しく朝日を浴びて佇む。この神社、那智の浜のすぐ近くにあり、熊野詣が盛んだった頃は浜の宮王子と呼ばれ、潮垢離を行って身を清めて那智の滝に向かったという。大竹さんのガイドでは、熊野は神仏習合の聖地であり神道や仏教や修験道が混然一体となっていた。明治の神仏分離や廃仏毀釈により神道化が進んだが、ここでは昔の神仏混合の名残が見れる場所。ここ補陀落山寺は補陀落渡海の地で、那智の浜から渡海船で捨身行の補陀落渡海した上人は、平安時代から江戸時代にかけて25人。補陀落渡海とは、30日分の食糧を積んで舟に乗り生きながらにして水葬されるような業。今は寺の裏に墓碑が静かに並ぶ。

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補陀落渡海の渡海船

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那智の浜

次は那智の滝に向かう。滝そのものが神であり仏であるため飛瀧権現といわれる。権現とは仏が神の姿で現れるということだと大竹さん。途中2011年の水害で被災した爪痕が残る道を走り熊野古道の名所の一つである大坂門はパス。ご神体である滝を凝視すると流れが逆転して龍が岩を昇るようにも見えて来た。

この滝の水源でもある那智の山中。熊楠はここで粘菌の研究に没頭していたが、この時期こそが熊楠にとって重要だった。孤独な生活で極限状態にあり、死も意識するほど精神は研ぎ澄まされ体外離脱なども体験して、森羅万象に想いを馳せエコロジーの思想を極めていったのだった。それには、ロンドン時代に出会いその後も友情を育んだ、真言僧の土宜法竜(どきほうりゅう)との便りの往来が重要な役割を果たしていたと言われている。

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那智の滝

さて、さらに山を分け入り弘法大師が開いたと言われる妙法山阿弥陀寺に向かう。弘法大師堂に心を奪われたが、ここは誰もいないのに鐘が鳴る死者の霊魂が詣でる地であり、日本最初の焼身往生の地でもあり、熊野古道最大の難所の「死出の山路」の入り口で死者の霊に会えるとも言われ、女人禁制の高野の代わりに多くの女性が訪れた女人高野でもある。

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妙法山阿弥陀寺の大師堂

霊魂が彷徨う山から補陀落の海まで、熊楠も超感覚的知覚現象を体験し、那智は海の果てに向いた聖地としての地力を強く感じる。

様々な情報と地力を受けてヘトヘトとなりながら新宮に向う。

神倉神社の石段は、源頼朝が寄進したと言われる貴重な鎌倉時代からの作り付けのままであまりに急な傾斜に足がすくみ、ご神体のゴトビキ岩は地元でヒキガエルの意味。次に訪ねた渡御前社は、神武天皇の仮の宮だった場所だと言われ、それを石垣に見出そうと撮影。いずれも熊野速玉大社に関わりのある社とされ、熊野の信仰、歴史がしっかりと土地に根を下ろしていることをしみじみと感じる。さて、今回最後の訪問地である熊野速玉大社。鮮やかな朱色に柔らかな気持ちになりしっかりと撮影をし終えた。

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神倉神社の石段

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渡御前社

熊楠をガイドに熊野を旅する。そもそも地力があり様々な歴史が刻まれる熊野。そこで森羅万象に想いを馳せ日本本来のエコロジーの思想を極めていった熊楠。あまりの情報量に圧倒された3日間。熊楠に魅せられこの地に移り住んでネットを駆使して「み熊野ネット」「熊楠のキャラメル箱」Twitter「南方熊楠」などで情報を発信する大竹哲夫さん。そして熊野の地に憧れ移り住み映像メディアを駆使して発信する水野雅弘さん。いずれもが熊楠の後継者となって、この地から「自然生態系のエコロジー」「社会共生のエコロジー」「精神を支えるエコロジー」この3つのエコロジーをJapanese Ecologyとしてすでに発信しているように感じる。

あらゆる場所で様々な事があり遅れ遅れになるのが常の僕の撮影だが、大竹哲夫さんが立てた撮影計画をなんと無事終了。新宮駅からの特急南紀に間にあった。これはきっと、めまぐるしく変化する天候に素直に従いつつ執拗に粘る僕を、にこやかに見守ってくれた大竹さんとの相性の良さのなせる技かなと感じる。大竹さんから車中でと駅前の除福寿司を差し入れてもらい出発。ふと駅舎を見ると手を振る大竹さん。発車までしばらく時間があったのに待っていてくれた事に感激して大きく手を振って再会を約束。

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新宮駅にて

※全ての訪問先の史跡や場所のテキストリンクは大竹哲夫さんの「み熊野ネット」です。より詳しく知りたい方は是非クリックしてみてください。

次回は11月。「熊楠を思ふ」旅を続けます。


posted by 川廷昌弘 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月05日

今こそ「流域思考」!

この言葉、岸由二慶應大学名誉教授のイキザマそのものだと感じます。

ネーミング、キーワード、その概念や考え方を表現する言葉は多様だと思います。その人の経験によって、多面体の概念をどこから見るかによってアプローチが違うと思います。

岸先生は、自分の幼少の頃からの体験をベースに、研究室の中で時間を積み重ねるだけでなく、現場で自ら土に水に植物に昆虫に動物に混じり合いながら会得した思想を明快な言葉にして発することをされてきたのだと、僕は未熟ながらお話を聞きかじりながら感じてきました。お話を聞けば聞くほどに、自分の行動から生み出された言葉を大切にし、魂を注ぎ、イキザマを晒している純粋な人なんだと感じてもいます。

そんな「流域思考」という概念、いよいよ理解が広がり始めたのではと実感しています。

頻発する水害による河川堤防の決壊や避難指示の遅れなど、災害大国にありながら対処療法の問題点を指摘する報道ばかりが去年の秋頃には目についていましたが、ようやく「流域」という言葉がニュース番組でも使われるようになり、自治体の区分ではなく流域全体を俯瞰した課題の取り上げ方が見受けられるようになっています。

しかし、最近気になったのが、流木が海に流れ出し養殖施設を破壊している事実や、流木によって橋桁が崩壊した事実など、簡単に目に見えることを捉え、流木が悪者になる伝え方をしています。この流木、以前は伐採した木、つまり根がない流木が悪さをした事もあったのかも知れません。それは山で伐採した木を放置してしまった結果だと思うのですが、現在の流木は根があるものが多いと聞きます。根こそぎ流されてきている状態。つまり山の手入れが追いついていない実態が晒されている。日本の山の課題が浮き彫りになっていることを伝えて、根本原因である林業を応援する報道が欲しいと感じます。少し余談になりますが、伐採をした木が悪さをしないような森林施業管理を促すのが、国際森林認証FSCの役割でもあります。

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三重県紀北町海山

さて、岸先生が提唱する「流域思考」。この言葉を聞く機会が増えた事は喜ばしいのですが、気になる記述も増えてきました。そして「流域思想」や「流域環境思考」という誤用とも取られかねない言葉。

今一度、岸先生の言霊に耳を傾ける時が来ているように感じますので、思い立って書き記しました!

2012年の2月に、お声がけいただき初めてお会いして感銘を受け、2013年から2014年にかけて、岸先生と何度か行った「ESDと生物多様性」のワークショップや、僭越ながら僕がファシリテーターを務め、流域を語る錚々たるメンバーが集まり2014年2月に開催された東北大学の生態適応シンポジウム「東北のグリーン復興は流域から考える」でお話いただいた事を、頼りない記憶から思い出してみると、

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「地球生命圏は、Icy Land + Sandy Land , Rainy Landで構成され、人間が社会を構築するのは雨降る大地であり、雨降る大地は流域の入れ子構造でできている。生命圏の秩序に即し、生物多様性の保全回復・実践・教育は、水循環が大地を区切る「流域」を単位にすすめる。これが「流域思考」の生物多様性戦略である。(流域=雨や雪の水が水系に集まる大地の領域)

医学では19世紀に細胞病理学(病気は細胞の質的量的変化によって生じる)という現在の常識が確立するまで、体液病理学(人間は血液、粘液、黄色胆汁、黒色胆汁の体液のバランスによって病気引き起こされる)が信じられていた。人間は大地に対して同じような過ちを犯しているとしか考えられない。雨降る大地は流域の入れ子構造であり、行政区分(人間の都合で線引きした管理区分)ではなく、自然の境界線によって管理しなければ、適切な予防(防災対策)ができず、適切な治療(災害処理)が出来ず、学習効果は得られず大地管理のスキル向上はない。

「流域思考」で大地を保全管理すれば、生物多様性の保全、資源管理、防災、津波、洪水土砂災害のいずれもに対応できるが、最大のネックは行政区を越える管理方法であるということ。」

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ヨコハマbデイ2012にて

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そして、昨年2015年9月の鬼怒川流域災害の際、数日に渡ってFacebookで皆さんに投げかけて多くの反響をいただいた文章も備忘録として以下に記します。

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「今日のNHKスペシャルを見て思う。」2015年9月12日

最初に流域災害という言葉は耳にしたが、最終的には広域対策という言葉しか出て来ない。根本対策の議論に至らない内容は極めて物足りないと素人にも判る。しかも番組の結論として、災害の専門家ですら「情報を活用できる社会を目指す」という。

避難指示を出した自治体の責任者は、国交省の浸水シミュレーションを見て色が付いていない川を渡った西側への避難指示を出したと言っている。溢れる川への想像力もないのも、大川小学校の教訓もないのも残念だが、隣接自治体への広域避難も出来ないと教科書通りのセリフを聞いて本質が見えたわけだが、それを指摘する事もないNHKの番組の構成の問題というよりも、自然の地図を俯瞰するという基本が、誰の頭からもすっぽりと抜け落ちているとしか言いようがない。

今こそ、慶應大学の岸由二名誉教授の「流域思考」による減災防災対策の水源域からの河川管理計画、流域圏の自治体で広域連携する避難対策を立て、それに伴う情報基盤を構築をする、これを広域だの県レベルだの国レベルだのという抽象的な言葉で結ぶのではなく、「流域思考」を最も理解している国交省が作成する事が急務だと言いたい。

そして同時に、義務教育の中で「流域思考」を取り入れて、どんな職業についても、常に自然の地図で物事を発想できる日本人をひとりでも多く育んでもらいたいと切に思う。これはESDの基礎でもあると思っている。
そうしなければ、これからこのような気候変動の影響を受けた異常気象による流域災害は続発するはずで、これがまさに気候変動、温暖化対策の「適応策」に他ならない。どうしてここまで番組で語れないのか。いま、防災減災を世間に向けて語る方々には岸由二先生の著作を読んでいただきたいと、焦りとも嘆きとも思える感情でこの文章を書きました。

誰かを攻撃したいわけではありません。1人でも多くの命を守るために、1人でも自責の念にかられる人を減らすために、多くの人に発信できる人たちと必要な事を始めなければならないという気持ちだけです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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「慶應大学岸由二名誉教授が提唱する『流域思考』とは!」2015年9月14日

地球の陸地は、氷の大地、砂の大地、雨降る大地で構成され、人間の経済活動は雨降る大地で営まれている。この雨降る大地は水の流れによって、毛細血管と細胞のように構成されている。という基本から発する考え方で、地球に生きるための人間の基本そのもののお話と、僕は受け止めています。

これをベースに社会を考えるというのは自然な発想であり、いまこの根本が完全に抜け落ちている対処療法によって、公共事業や防災計画が立てられているのではないかと懸念しています。時代をシフトする、持続可能な社会づくり、、、いろんな言葉で多くの人が未来をより良くしたいと行動しています。そんな活動の全ての基本に、この「流域思考」が必要だと思っています。

「行政区分図」で見ていた社会づくりを、流域圏による「自然の地図」で俯瞰することで、社会インフラの根本を見直す事になり、持続可能な社会にシフトするヒントが満載だと思っています。改めて1人でも多くの人と、この「流域思考」を共有できたら幸いです。

サイト検索するといろんなページがありますので、ぜひお時間のある時に検索してみてください。まずはこのThink the Earth Paperを読んでもらえたら良いのではと思い共有しますね!
Think the Earth Paper「流域思考」 

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「これが『流域思考』だ!」2015年9月15日

1人でも多くの人に読んでいただきたい。

慶應大学岸由二名誉教授が、今回の鬼怒川の水害を捉えて、「流域思考」を非常に丁寧に話しています。NHKスペシャルで浮き彫りになった自治体の避難誘導の課題、学校教育の現状、これまでの水害にも触れ、気候変動、生物多様性の危機に対する「適応策」、今後の具体的な対策までコメントしています。そして入門編に「流域地図の作り方」の著作紹介も。カユい所に手が届く内容です。

先日来、僕がつたない文章で書いた「流域思考」が、いよいよ岸先生ご本人と日経BPの柳瀬さんとの会話で解き明かされています。是非読んでください。とても早いタイミングでの記事化、柳瀬さん、流石です。素晴らしいです。ありがとうございます!
鬼怒川の水害、再発を避けるには「流域思考」が必要

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さあ、今こそ岸先生の話す「流域思考」に耳を傾けよう!

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ヨコハマbデイ2012にて

posted by 川廷昌弘 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする