2022年05月05日

松韻を聴く、新たな旅へ。

GWの恒例としていた車中泊による海岸林の撮影旅。

2013年から2019年までは東日本大震災で津波被害にあった海岸林を訪ねることをテーマにして継続。2020年はコロナ禍のため止む無く中止。しかし足掛け7年の成果として写真集「松韻を聴く」を2021年の2月に蒼穹舎から出版し写真展もギャラリー蒼穹舎で開催。多くの人に足を運んでいただいた。

これにより一区切りついたので、次は全国各地の「松韻を聴く」ことを考え始めた頃に、とてもタイミング良くハッセルブラッドから念願のデジタルバックCFV II 50Cとカメラボディ907Xが発売され、レンズのXCD45Pと合わせて2021年の秋に購入。これまでの「松韻」は、1991年に親父から譲り受けた1971年製造のハッセルブラッド500Cに標準レンズのプラナー80mm1本で、それにフジフイルムのACROS100を入れ愛機として撮影してきた。これからの「松韻」は最新鋭のデジタル愛機に世代交代してみようと考えたのである。

その試みの第一弾として、2021年に沼津御用邸跡から伊良湖岬に至る約250kmを撮影。主な撮影ポイントには、日本緑化センターの「身近な松原散策ガイド(109箇所)」を頼りに、沼津の千本松原、三保の松原、浜岡砂丘、中田島砂丘、恋路ヶ浜を訪ねた。旅を終えて、デジタルデータの現像はできるだけフィルム時代のようなナチュラルな仕上がりにしたくてパソコンに向き合い一つの手応えを感じていた。そこへ、たまたま日本緑化センターから季刊誌「グリーン・エイジ」の寄稿を依頼されたので、この新たな旅への気持ちを「松韻を聴く旅へ」という文章にすることで心の整理ができ、妄想から構想へと進化したように感じている。

そして、今回は第二弾として、藩政時代から動く砂を止めるため松を植え続ける地域である東北の日本海側を考えた。「身近な松原散策ガイド」で見ると、能代市の”風の松原”から村上市の”お幕場”あたりを対象とした。こちら方面はまだ一度も訪ねたことがない土地でもあり好奇心がそそられたのだ。

5月1日に雨の具合を見ながら新潟に向かった。小雨なら新潟から北上も考えたが、市内の雨脚が強く明日以降は秋田の方が晴れ間の確率が高そうだとわかり、迷いに迷ったが一気に能代まで駆け上がることにした。山形辺りから圧倒的な松のある海岸風景に、これほど松が多いとは、というより松以外の木立がほとんどない、とは知らず心が躍り始めたのだが、北に向かうほどそのほとんどが赤茶色に枯れているのが気になる。多分にそのほとんどは土地柄的にも冬枯れだとは思うのだが、明らかに立ち枯れている松も多い。これは間違いなく松食い虫の影響だと思うが、これほど被害が広がっているとは知らずとてもショッキングな光景であった。

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荒ぶる日本海から暮らしを守るために、藩政時代から築かれてきた黒松による海岸林。しかしこの松の風景の歴史も、時代の変化に応じて紆余曲折してきたことも知った。能代市の風の松原に関する「砂防林の今昔」という資料によると以下の通りである。飢饉による生活のための伐採や、明治時代は製塩のための乱伐、食用にする海浜植生の盗掘により砂留め機能の低下などあり、大正時代に再び植林事業が活性化したが、昭和時代に入って戦争での燃料のために乱伐される。戦後になってようやく安定した植林事業が始まったようだ。しかし、今度は臨海工業団地など開発事業により松の伐採計画が持ち上がるが、市民運動によって松の保全とのバランスをとった計画的な開発となり現在に至る。しかしながら、次は松食い虫、マツノザイセンチュウによる壊滅的な被害が始まる。さらには自然の遷移の問題も議論されているようだ。松だけだった林が広葉樹林化していくのだ。今は混交林のような状態だが、手をつけないと時と共に松が負けて広葉樹林となってしまう。そうなると潮風に弱い広葉樹では防砂機能がなくなり再び砂が押し寄せるという。松葉の絨毯が広がる松だけの風景は、美しいだけでなく防砂林機能が最も強く発揮されている状態とも言えるのかもしれない。もっと言えば、常に何らかの人の手が入ってこそ暮らしが守れるということを、この地の歴史が教えてくれている。

山形県と秋田県の県境あたりの羽後三埼灯台の足元に、石組みの旧道があり”奥の細道”の看板がある。これは、芭蕉が目的地としたと言われる象潟に急ぐ道だった。考えてみれば、僕の撮影旅は奥の細道と重なる部分も多く、芭蕉についてもっと知っておくと撮影にも深みが出ることに今頃になって気が付く。そもそも象潟とはなんたるかも知らなかった。奥の細道や芭蕉を解説する読み物を探そう。さて、道すがら明日以降の撮影ポイントになる可能性もあるので、とても気になる風景があると地図にマークだけつけて先を急ぎ、なんとか日没までに北能代にある道の駅みねはまに着くことができた。自宅から700km、寄り道なしだとしても10時間の距離だったが、実際は5時に出発して18時の到着だった。車中泊は、道の駅から海岸に向かい誰もいない巨大な風力発電施設の近くにした。

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2日目の朝。気持ちよく朝焼けが始まる4時に起き、能代市にある風の松原を散策。道路沿いに樹齢を重ねた松が林立し魅力的な風景。散策路に入ると確かに混交林となっている。朝日が美しくフォトジェニックではあるが複雑な気持ちになる風景である。ここからひたすら八郎潟の海側を南下して、巨大な風力発電の風景に圧倒されつつ秋田市下浜、由利本荘市道川などの海水浴場や芦川の集落など立ち寄る。自称「寄り道大王」となって一向に進まずだが、欲しいアングルを発見する喜びに勝るものなし。夕暮れが迫り西目の道の駅を起点に考え西目海水浴場で車中泊とする。今日はわずか125kmなり(笑)。

夜中、きっと誰でも目が覚めてしまうような強烈な雷雨が何度も屋根を叩きつけ、雷が目の前の海を横切るように鳴り響きちょっと緊張。3日目の朝は4時半起床。夜明けの清々しい風景。しかし雨雲が迫る。午前中は雨雲に追いかけられ、時にスコールのような雨に降られながら、季節の変わり目らしい天気に翻弄され、雲待ちが多い気長な撮影となる。しかし結果として空の表情が豊かな作品が得られる。

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黒々とした松林に囲まれた西目中学校の校庭が、雨上がりの朝日に照らされ美しい。次に、海沿いの里道地区の家並みは黒光する瓦が美しく、この方面はいずれの集落も同じように連なる黒瓦のハーモニーが美しく感じる。脈々と受け継がれるコミュニティ力の証と言えるのだろうか。コンパクトで絵になる金浦漁港で納得できるアングルを得てしばし佇む。そして、走る車窓に不意に現れたのが芭蕉が奥の細道の一つの目的としたと言われている象潟。

象潟とは、鳥海山の山体崩壊で出来た地形で、その頃は九十九島という名の通り水没しており、江戸時代には”東の松島、西の象潟”と言われていたが、1800年ごろの地震によって隆起。陸地となったため、本庄藩の干拓事業で水田開発されるところを、地域にある蚶満寺の住職が命をかけて守った。何の知識がなくとも珍しい風景で立ち止まる場所。そこかしこに被写体となりうる場所があり、名残惜しいが先を急ぐことにする。が、すぐに寄り道。象潟漁港は鳥海山を仰ぎ見るロケーション。残念ながら雲がかかり麓しか見えない。再訪を誓いたくなる場所である。そして往路で見つけた枯れた松が印象深い風景に戻ってきた。朽ちていく松によって、海沿いにへばりつくように並ぶ集落の行く末を考えさせられてしまう、そんな光景に見える。結果的に、今回の車中泊でも最も印象深い光景となった。往路で立ち寄った三埼周辺を過ぎたあたりにある女鹿漁港がフォトジェニックで立ち止まり、遊佐町にある青山本邸というニシン御殿に立ち寄る。大きな松が背景となる邸宅。

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いよいよ酒田市にある土門拳記念館。写真家なら必ず向かえという場所であるが待望の初訪問となった。ライバルと言われた木村伊兵衛との作風を比較する展示が良かった。いずれの個性も理解でき、それぞれの”集中力”の発揮の仕方が見えてきた。軽快なフットワークを感じる木村伊兵衛でも、全体を俯瞰しながらシャッターを切る”瞬間の集中力”が見える。一方の土門拳は、フレーミングからシャッターを切る瞬間まで隅々までこだわる”継続する集中力”が見える。僕は何を表現したくてどう撮るのか、自分のたしなみ、ポリシー、被写体への敬い。どのような”集中力”で、撮り手の思いを感じる作品づくりをするのか。人間性、人間力、そして哲学。とてつもなく刺激を受ける時間となった。

R112で南下すると、庄内空港を抜けたあたりに続く松並木をどうしても被写体にしたくなり足止め。そのまま海沿いをいくと、ダイナミックな光景に由良の街並みが小さく佇む。しかし日没が迫り、帰路を考えると少なくとも村上には辿り着く必要があり一気に駆け抜ける。18時半ごろに道の駅朝日に着き温泉があったが18時で営業終了だったため先を急ぎ、一つの目的地であるお幕場に近い道の駅神林まで向かう。すでに真っ暗になってしまっていたので、安全を考えここの駐車場を宿とすることとした。今日は170km。

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4日目は4時半起床。村上市のお幕場でスタート。ここは村上藩政のお殿様や奥方、奥女中の遊園として使われ、現在に至るまで地域を風や潮から守ってきた。珍しく赤松だけの林で、朝日を受けてさらに赤く輝き本当に美しい。当時を思いながら散策し撮影ポイントを探す。少し海辺の集落に足を伸ばすと映画のセットのような佇まいに出会う。木造の壁面に瓦屋根のハーモニーが美しいロケーションを生み出している。胎内川の辺りにある荒井浜森林公園では、この方面らしい白砂青松を感じる光景を見つける。この出会い頭があるから寄り道はやめられない。荒川を渡ると海側に船小屋が並ぶ。都市生活で考えると道具で埋め尽くすガレージを連想する。漁師たちの思いが詰まった空間なのだろう。生業と自分の世界観。外観にもそれが現れているように感じ撮影する。ようやく新潟市内に入る。マリンピア日本海近くにある護国神社の松林も、「身近な松原散策ガイド」にある目的地の一つ。境内に入ると結婚式の記念写真。松林に囲まれ、安心できる空間であることが象徴的に表現できる。

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神社境内の東側にある松林の中に一人の銅像があった。初代新潟奉行川村修就とある。長岡藩から天領になったことで赴任し、在任九年で海防、消防、物価の安定など、地域の暮らしの向上に尽力したとあり、また多くの才を持ち、習俗・風景などを絵や随筆に書き歌に詠み、これが幕末の新潟を知る資料となっているようである。在任中に3万本の松を植林したとあり、地域を俯瞰する中に海岸林の保全もしっかり位置付けられている。僕の撮影テーマを考える上で、とてもヒントになる人物である。ここでは松韻が優しく響く。これを撮るにはと木漏れ日で美しい下草を狙ってみる。いつまでも佇みたい幸せな空間である。

新潟市内に住む友人の大和さんからFBにコメントがあったので連絡を取り合い、ダイナミックな砂丘風景が残る小針海水浴場の駐車場で待ち合わせ、海から1km以内の立地にあるご自宅に伺う。紀子さんの手料理をいただき、大和さんの炒れるコーヒーもいただき、1時間ほどの滞在で密度の濃い会話。大和さんの母校である坂井輪中学校の校歌の出だしは「青松白砂あやなすあたり緑ヶ丘の丘の上」である。最後に砂丘点景を撮りたくなり何かを感じて止めた場所にフォトジェニックにも小舟が砂に埋まっている。これをこの旅の最後の写真として気持ちよく終了できた。ここから自宅まで360km、順調に走れば5時間以内の距離。しかし、なんとも懐かしいと感じる高速渋滞が高崎あたりで40km90分。レンタカー返却時間ギリギリで帰宅できた。

今回は特に感じたのだが、きっと僕には、写真の神様が、きっといる。出会い頭、何かを感じて立ち止まるなど、撮りたい!という気持ちが引き寄せるのか、ワクワク好奇心で風景を見ているからなのか、そういう何かを授けてもらっているのか。こうなったら”信ずるものは救われる”という言葉通り、”写真家として生き、写真家として死ぬ”という気持ちを強く持ち続けることとします。

使用機材
HASSELBLAD 907X CFV II 50C + XCD45P
CANON EOS 5D Mark III + EF24-105
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2022年04月03日

中判デジタルで撮影する「芦屋桜」も2年目

2022年度のスタートは故郷の芦屋で過ごした。

芦屋桜満開のため天気を見計らって撮影に没頭してきた。4月1日は26,000歩、4月2日は27,000歩、桜に招かれるように芦屋市内を縦横に約40km歩いた計算になる。南北でいえば、芦屋浜のシーサイドタウンから六麓荘まで。東西でいえば、三条町や津知町から、岩園町、大東町まで。

芦屋らしい桜のある風景。それが自分に課したシャッターを切る条件。芦屋らしさとは、自分の中に染み付いた判断基準による(笑)。街路樹、邸宅の桜樹。桜を見つけては歩き、撮影してふとあたりを見ればまた桜に招かれと、途切れることなく町中のあらゆるところに桜が咲いている。芦屋はそんな町なのだ。

僕の「芦屋桜」への思いを少し語ってみようと思う。

博報堂の関西支社への転勤を機に故郷へ戻り、1991年から撮り始めた芦屋の佇まいが、1995年の阪神淡路大震災で喪失。僕も実家でタンスの下敷きになり、被災者の心境を綴るように淡々と撮影を継続した。そして、被災して一年後の町並みに咲く桜に励まされ、東京へ戻り湘南に住むようになっても復興していく故郷を撮り続けることができ、震災から10年の節目に写真集「一年後の桜」として出版できたのだった。

写真集「一年後の桜」の一部はこちらでご覧いただけます。

その写真集を見たABC朝日放送のディレクターさんが、僕が芦屋で桜を撮りながら震災について語る5分ほどの報道特集を、2007年4月に制作して放送してくれた。それがきっかけで桜の季節に芦屋を撮り歩くことにして、震災から20年の節目である2015年に写真集「芦屋桜」を出版することができた。

この2冊の写真集は、ハッセルブラッド500CにプラナーC80mmのシルバーレンズにモノクロフィルムを入れて撮り歩いたもの。今は亡き親父が1971年に購入したものを1991年に譲り受けてこの芦屋シリーズを開始。現在に至る。満50歳を超えた機材が現役バリバリなのである。

写真集「芦屋桜」の一部はこちらでご覧いただけます。

しかし、昨年から再開した「芦屋桜」の撮影は、2020年にハッセルブラッドからようやく発売されたデジタル907X 50CにXCD4/45Pというコンパクトなレンズ1本を付けて撮り歩いている。写真とは進化の賜物であり、古き良きものを大切にしつつ革新にもついていかねばならないものでもある。見かけはコンパクトデジカメのような大きさだけど、中判デジタル5000万画素という超精細なデータとなるので、所作は自然体でありつつ気合いを入れて撮る。そんなたしなみの機材である。

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昨年のブログはこちら。

約10年ほどで芦屋の風景も変化があり、大きな邸宅が更地となり桜の大きな老木が減っている。しかし変わらず迎えてくれる桜樹もある。そして、歩く本人も、山側の上り坂では足腰が気になるようになり、夕方まで気力を保つのが精一杯(笑)。故郷の風景は懐かしく、気がつけばタイムトリップして心境だけは少年時代に戻っていくが、体は正直なものである。

さて、こうして芦屋に帰郷して桜を撮ると、無性に写真集「芦屋桜」を眺めたくなる。あの桜、この桜、もう会えなくなった桜を眺めつつ、新しい芦屋桜との出会いに備えたいということかもしれない。桜を通して故郷の芦屋の風景の変化を見続けるのもひとつの作業になってきた。このデジタルシリーズもいつか形にできたらと考え始めているので、もう少し撮り続けてみようと思う。

こうして、故郷の芦屋を撮影することは一つのライフワークになってきた。僕はどんな写真家なのか。この作業の先にその答えが必ずあると確信できるようになってきている。

写真集「一年後の桜」はこちらから購入できます。スクロールすると新品が出てきますので是非そちらを。

写真集「芦屋桜」はこちらから購入できます。

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posted by 川廷昌弘 at 19:22| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月17日

今年の117に思う

阪神淡路大震災から27年。今年の言葉は「忘」。忘れない。忘れたい。忘れられてしまう。被災者それぞれに「忘」と書いて違う心境を抱く。そんなメッセージ。NHKの報道では震災を知らない世代が震災を「忘れず」教訓にするために動いている話でした。

僕にとっては初孫が生まれて初めての117。毎年いろんなことを思い出して書いているけど、2歳だった長女とのことを今年は思い出しました。

1995年1月16日の夜。なぜかその日に限って腰痛がひどく、どうしてもいつもより硬い布団が良いと思って、いつもは長女が寝ているベッド横の床に敷いた布団に僕が寝て、長女はベッドでと交代したのでした。

そして1995年1月17日5時46分。バーン!と突き上げられローリングする床に左右に叩きつけられているうちに、僕は足元から倒れてきた2つのタンスの下敷きになった。

何とかタンスの下から這い出してベッドの上でキョトンとしている幼い長女を見て、もしいつも通りに寝ていたらどうなっていただろうと、何たる偶然というか、何たる奇跡というか、世の不思議を思うしかありませんでした。

数日たって近所を一緒に歩く長女が、左右に壊れた家々を見ながら「しんさい、たいへんね」と覚えたての言葉を言いながら、ひび割れた道をおっかなびっくりジャンプしたりしていたのを思い出します。

今日は実家の用事があり芦屋にいます。昼過ぎから予定が空いたので、芦屋川沿いにある芦屋公園に設置された献花台に記帳&献花して祈ることができました。震災直後、壊れてしまった町を写真家として撮り続けるのに心身ともに疲れ果て、気がついたらこの老松が林立するこの公園に佇んで癒してもらっていました。

本当に穏やかで優しい気持ちになれる場所。今日もここで穏やかな心持ちで過ごすことができました。人は自然とともに生きるというより、自然に生かされていると感じます。僕にとって環境コミュニケーションや写真家としての原点となる場所なんだろうと思います。還るという言葉がしっくりくる場所になってきました。

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2022年1月17日 芦屋公園の献花台


posted by 川廷昌弘 at 05:46| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月22日

「ちがさきSDGsターゲット」をつくってみました。

地元の茅ヶ崎でSDGsの試みをしてみました。その名も「ちがさきSDGsターゲット」です。

茅ヶ崎市は今年2021年3月に「茅ヶ崎市総合計画2021-2030」を発表しました。この中で、職員のみなさんが頑張って、政策をSDGs17ゴール169ターゲットに紐付けています。全体版は、職員のみなさんの業務リストのような感じなので、市民が読み込むのは大変。概要版はすっきりデザインされていてなかなか良いです。

しかしながら、市民も手に取りやすい概要版では、政策に複数のゴールがラベリングされているだけで、具体的にどのようにSDGs達成のストーリーが存在するのかが分かりにくいのです。そこで、もっと市民目線で、SDGsから関連する総合計画の主な事務事業を知ることができないだろうかと、相談を始めました。政策にラベリングしているような他人事なSDGsではなく、市民目線でみる「ちがさきSDGs」をつくるにはどうしたら良いか。いわばSDGsの「ちがさきごと化」、SDGsのローカライゼーションです。

そこで、思い切って、ゴールの中に複数あるターゲットを、ひとつの「ちがさきごと」化してみようと考えました。複数のターゲットから「ちがさきごと」な要素を抜き出して、ひとつの文章にしていくというものです。これが「茅ヶ崎市総合計画を進めるための、ちがさき SDGsターゲット」です。そして、その文章に関連付けられる茅ヶ崎市の主な事業を、それぞれ担当するセクションの職員のみなさんによって列挙してもらいました。

SDGsは2030年を達成年とする目標ですが、コミュニケーション・ツールでもあります。その機能を活用した、この「ちがさきSDGsターゲット」。ぜひご覧ください。ダウンロードできるpdfは職員の手作り版です。きれいに仕上げるのではなく、誰にでも使ってもらえるように頑張った職員のみなさんの思いが伝わることを期待しています。

なお、茅ヶ崎市はSDGs未来都市ではありませんが、2019年1月に「SDGs日本モデル」宣言に賛同しました。その後、2019年12月に僕は佐藤光市長さんからSDGs推進アドバイザーに委嘱され、本格的にサポートを開始しました。

例えば、
ゴール1のちがさきターゲット
「市内の支援を必要とする人を減らすため、避難行動要支援者支援制度や包括的な相談支援体制等を推進します」

これに関連する事業
「避難行動要支援者支援制度事業」(防災対策課)
避難行動要支援者に対して避難支援の環境を整 えられるようモデル事業を実施し、課題解決を図ったうえで全市的に展開します。
「生活困窮者自立相談支援事業」(生活支援課)
生活に困りごとや不安を抱えている方からの相談に対し、支援員が支援プランを作成し、寄り添いながら自立に向けて支援します。
「ひとり親家庭総合支援事業」(子育て支援課)
ひとり親家庭の生活の安定を図ることを目的に、関係機関と連携して相談会を実施し、各種支援情報の提供や生活全般の困りごとへの対応、就労支援を行います。

といった具合です。
こちらのページからpdfのダウンロードができます。

茅ヶ崎市民のみなさんはもちろん、ご自身の町でSDGsに取り組んでみようと思う方は是非ご覧になってみてください。「いいね」「ダメだね」なんでも結構です。ご意見いただけたら嬉しいです。


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posted by 川廷昌弘 at 23:13| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月13日

SDGsで芦屋の未来を語る

故郷の芦屋でSDGsを活用して、芦屋の未来について語ってきました!

芦屋市政施行80周年記念
芦屋文化ゾーンシンポジウム
「芦屋の魅力のルーツを探る!!
〜歴史・文化・SDGsの視点から紐解く〜」

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考古学:竹村忠洋(芦屋市教育委員会)
阪神間モダニズム:三宅正弘(武庫川女子大准教授)
具体美術:川原百合恵(芦屋市立美術博物館)
SDGs&モデレート:川廷昌弘(博報堂DY)
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主催:芦屋市教育委員会
会場:芦屋市立美術博物館

このイベントは、芦屋市教育委員会の皆さんと市政80周年事業にSDGsを取り入れて芦屋の未来を語る企画をやりましょう!ということから動き始めたものです。

僕の素朴な問いは、
「芦屋」っていつからブランドになったんだろう?
そもそも「芦屋ブランド」って何だろう?
未来に継承するために何をするべきなんだろう?

これに対して、
1、芦屋の地形から芦屋の生活文化の成り立ちを知り
2、近代化とともに築き上げられた阪神間モダニズムを知り
3、世界戦略を持つ芸術表現「GUTAI」の誕生背景を知り
4、芦屋の未来をSDGsの視点で地に足のついた発想をしてみる

そんな内容を話せる方に登壇をお願いしましょうということで、今日のセッティングとなりました。

芦屋という地名は「芦」「葦」の生える湿地が広がり、アシを葺いた家が点在していた風景に由来する。7世紀以前にはすでに記録があり、740年に摂津国菟原郡葦屋郷との記述があり、芦屋廃寺など、菟原郡の政治的中心地であり、平安京の都人が西国街道で向かうと、最初に海に打ち出でる場所が芦屋であり、平安時代の伊勢物語にも書かれた風光明媚な景勝地で知られていた。

阪神間モダニズムは、私鉄の開発と共に国際文化住宅都市の芦屋を中心に発展し、フランク・ロイド・ライトの山邑邸を象徴とし、有名建築家の手による公共施設や、個人の邸宅に洋風建築が多数取り入れられ、自生する松を象徴的に残しながらインフラは開発され景観を成してきた。またモータリゼーションの象徴の国道2号線に架かる橋はモダンなデザイン。

そんな芦屋では、二科展九室会を発足させ、1948年芦屋市美術協会の会長に就任し、現代美術懇親会などで活躍していた吉原治良の「人の真似をするな」という言葉の元に若き前衛作家が集まり、1954年に具体美術協会が設立。松林豊かな芦屋公園で立体物からパフォーマンスまで野外具体美術展を開催。洋画家小出楢重の元に多くの画家が集まり、伊藤継郎も絵画教室などを開いて次世代を育てた。そして、芦屋市展は何人でも応募できる開放された展覧会であった。また、洋行帰りの中山岩太が芦屋でアトリエを建て、ハナヤ勘兵衛などと、「總ての作家に敬意を拂ふ 然し我々は新しき美の創作 新しき美の發見を目的とす」と宣言し、芦屋カメラクラブを設立。当時世界で流行していたドイツ新興写真を凌駕する斬新な写真表現を展開していた。

登壇者の話を僕なりにまとめてみると、芦屋は、平安時代の都人に風光明媚な景勝地として知られ、すでにブランド化していた。しかし、近世までは空白時代が続き、近代化の住宅都市作りで、このブランドイメージを活用した開発が行われた。そして大阪商人たちが競って洋風建築を建て、モダンな景観とライフスタイルが定着し、先進的な芸術も開花し世界にも発信しながら、誰もを受け入れ新たな才能を発掘していった。4,000人に満たない市民がこの近代化で一気に20,000人となった。多くの芦屋生まれの市民はこの時代に移住した末裔たちで現在、3、4、5世代目ぐらいということになる。こういったことがわかってきました。僕もひいじいちゃんが芦屋に家を建てて移住したので4代目。

僕からは「芦屋市民憲章」にSDGsの17ゴールを当てはめ、SDGsが国連で決まったどこか遠い国の問題を解決するためのものではなく、自分たちが住む町を次世代に引き継いでいくための地域の目標であり、その集積が国連で議論されているSDGsであると説明をしました。

もう少し説明すると、「芦屋市民憲章」は、1951年(昭和26年)に住民投票で示した市民の総意が生み出した特別法「芦屋国際文化住宅都市建設法」によって「国際文化住宅都市」に指定されたことにより議論が始まり、1964年(昭和39年)に宣言されたものです。

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芦屋市民憲章
わたくしたち芦屋市民は、文化の高い教養豊かなまちをきずきましょう。
わたくしたち芦屋市民は、自然の風物を愛し、まちを緑と花でつつみましょう。
わたくしたち芦屋市民は、青少年の夢と希望をすこやかに育てましょう。
わたくしたち芦屋市民は、健康で明るく幸福なまちをつくりましょう。
わたくしたち芦屋市民は、災害や公害のない清潔で安全なまちにしましょう。
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昭和39年の頃は、環境問題とは、高度経済成長による公害問題の時代であり、気候変動はまだ議論されていません。アンコンシャス・バイアス(無意識の偏った物事の見方)やジェンダー平等なんて言葉もありません。しかし、この市民憲章は平易で奥行きのある文章になっており、その時代その時代の意訳をすることで未来にわたり、芦屋の市民の心がけとして語り継ぐことのできる先人の知恵であると思います。つまり、現在であれば、これをSDGsで説明することで、世界共通言語にすることが可能ということです。また逆を言えば、SDGsはそのような普遍性があることを理解することも大事だと思います。

ちなみに、全国で唯一の住宅に関する特別法「芦屋国際文化住宅都市建設法」とは、芦屋にある資源を守る開発を目的とし、第一条にはこのように書かれています。
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第一条 この法律は、芦屋市が国際文化の立場から見て恵まれた環境にあり、且つ、住宅都市としてすぐれた立地条件を有していることにかんがみて、同市を国際文化住宅都市として外国人の居住にも適合するように建設し、外客の誘致、ことにその定住を図り、わが国の文化観光資源の利用開発に資し、もつて国際文化の向上と経済復興に寄与することを目的とする。
===
このように芦屋の先人たちは、豊かな芦屋の持つ資源を守りながら、新しい物事に挑戦し続けて、現在の芦屋ブランドが作り上げられてきたと言えます。

さて、このフォーラムを企画した者として、最後に取りまとめてみると、シンプルにこういうことになります。

「未来の子ども達に、これまで先人が築いてくれた芦屋ブランドを守り継承するために、私たちも新しいことに挑戦をし続けることが大事であるということです。特に、子ども達の自由な発想に学び、その可能性を開花させるための住環境づくりであると思います。」

その点で、9月に策定されたばかりの芦屋市総合計画に可能性を感じています。「ASHIYA SMAILE BASE」と題され、その新鮮味が、現市長のいとうまいさんのイメージにピッタリだと思っています。この中で、3つのプロジェクトが記述されていますが、その中の一つ、「ともに進めるエリアマネジメント」が秀逸だと思っています。こう記述されています。「官民が連携して取り組んでいる芦屋市中心部のブランディングエリアにおいて、JR芦屋駅南地区再開発事業との連動、エリア内の歴史的建造物の活用、起業や市民活動の支援により、賑わいや自己実現の場をデザインすることに併せて、市内回遊性を高め、市全体への波及効果を目指します。また、打出教育文化センターなど公共施設の最適配置に伴う新たなエリアマネジメントを推進します」というものです。僕はこのプロジェクトは総合計画の目玉だと思いますし、芦屋らしい未来づくりになることを期待しています。

実家もこのエリアにあり、母も町内会のみなさんと取り組んでいました。僕も芦屋市の先人が築いた財産を食いつぶすような道楽息子になってはならないということですね。今年の早々に市制施行80周年記念WEB版冊子「ROAD TO 2040 ASHIYA」で故郷への思いを取材していただいています。ここでも芦屋への思いを語っています。

今日の会場には、中学校の同級生、会社の先輩、勝手に恩師と思っている芦屋市立美術博物館の元学芸課長だった故河ア晃一さんの奥様と娘さんもお越しになり初めてご挨拶できました。そして母が町内会の方々と駆けつけてくれました。終わってから、母からは、「あんなに上手に話をするようになったのね、市民憲章って難しいことが書いてあるなあと思ってたけど、今日の話でよくわかったわ。SDGsもそういうふうに考えたらよくわかるわ。」「声がよく通るから、耳の遠い町内会の人も、話の中身がようわかったって」と言ってくれました。きっと会場にお越しくださったみなさんもこんな感じで持ち帰ってもらえていたら嬉しいです。会場は満席、年齢層も様々でした。

そうそう、会場のみなさんに「SDGsはご存知ですか?」と聞いたら、ほとんどの方から手が挙がりました。そして「市民憲章はご存知ですか?」と聞いたら誰も手が挙がりませんでした。なるほど、、、、次なる展開を芦屋市教育委員会の皆さんと相談していきます。

絵葉書「芦屋業平橋」(昭和10年代撮影。カラー化。).jpg

さて、最後に、今日のメインビジュアルにこの写真を使っていただきました。昭和10年代の芦屋の絵葉書です。それを周年企画の一環でカラーで再現されたのですが、会場のスクリーンいっぱいに投影してみると、葉っぱの一枚一枚や国道電車の質感などがとってもリアルで、昨日撮った写真のようにも見えました。この写真について、芦屋市教育委員会の竹村さんのコメントです。「昭和10年代に比定しておりますが、その根拠は写真に写る国道電車が阪神71形で、昭和12年(1937)に新造された車両であることです。また、この写真は業平橋が阪神大水害(昭和13年7月5日)の被害を受ける前のものであると思いますが、そうすると昭和12年〜昭和13年7月5日までに撮影された写真ということになります。」

想いが熱く、長文となってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。ご意見、ご感想をお寄せいただけると嬉しいです。

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2021年04月04日

2020年代は「スモール都市の10年」、世界で茅ヶ崎は第5位の自治体!

2007年に創刊したイギリスに拠点があるビジネス・ライフスタイル情報誌Monocle(モノクル)。独自の視点でA=Affairs (国際情勢)、B=Business (ビジネス)、C=Culture (文化)、D=Design(デザイン)、E=Edits (編集選定)の5分野で最新情報を発信。編集方針が日本本来の価値観との親和性が高いようで日本の情報も多い。

そのモノクルがスモールパッケージという世界のベスト都市ランキングを昨年発表した。

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世界に広がる特派員のネットワークを駆使して、世界のベストスモールシティのリストを作成。これからの10年を忙しい都会を離れてダウンサイジング。仕事、社会生活、家族、交通の便のよい空港など都会から離れても居心地のよい場所で手に入れることは可能だと信じている。それが2020年代は「小さな都市の10年」になる。

小さな都市での生活は、スペースや快適さだけではない。社会的にコミュニティ意識の高い場所では、生活が新鮮に感じられる。大都市は人々の距離を縮めるけど、それは実用的な意味であり孤立や孤独など避けられない副産物もある。

都会に住む人々は健康志向が強く、小さな都市での生活は精神的にも肉体的にも健康に役立つ。アウトドア生活が密接で、公害や交通量が減って、息抜きができるようになり、現代生活の喧騒から解放され、健康的な生活を送ることがでる。

モノクルが選んだ小さな都市は、テクノロジーによって仕事の仕方や場所が自由になる。都市の規模を小さくすることで、生活の質が向上することに驚くだろう。

人口20万人程度の都市は、社会的・文化的な多様性と趣向性の最適なバランスを提供する上で、ある種のスイートスポットと言える。モノクルの小さな都市のリストは、20万人より小さいところもあれば、少し大きいところもある。

(モノクルのサイトより抜粋和訳)
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つまり、この20万人規模のベスト都市の世界ランキングは2020年代を通して期待される都市ということ。そこに何と日本の自治体では唯一、さらに何と世界5位にランクインしたのが茅ヶ崎市なのだ。なぜこの事実が話題にならないのかが不思議でならないので、このことを教えてくれたフラワーの平尾くん、モノクルで記事を書いているオードリーさんとCheeegaで対談した。このランキングが発表されて1年近く経つがブログにもこうして記すことにした。

何よりコロナによって働き方も変化しコロナ以前の働き方に戻ることはないと思う。そうなると、モノクルが選んだ都会から程よい距離にあるこの20万人規模の小さな都市の価値はますます高まると思う。僕も「茅ヶ崎ワーケーション」と名付けて、今の働き方を楽しもうとしている。そういう意味でも2020年代は「小さな都市の10年」になるということなんだろうという実感がある。

こちらがそのランキングで、茅ヶ崎の選定理由も和訳して記す。

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1、ローザンヌ(スイス
2、ボルダー(アメリカ
3、ベルゲン(ノルウェー
4、ホバード(オーストラリア

5、茅ヶ崎(日本

山と海に囲まれた茅ヶ崎は、東京から電車で南に1時間の距離にあり、まるで田舎の隠れ家のような場所。サイクリング・インフラが整備されているので、移動には自転車が最適で、近くのビーチ・コミュニティを訪れるのにも適している。茅ヶ崎の中心部だけでなく、街全体に美味しいレストランが点在しているので、国際色豊かな料理が楽しめる。温暖な気候と治安の良さで、東京にはない静かな街。 茅ヶ崎はサーフィンで有名。湘南海岸は日本の近代的なサーフィン文化の発祥の地。若いファミリー層におすすめ。茅ヶ崎市では、働く母親のための制度が導入されており治安も非常に良い。リーズナブルな価格のオフィスやコワーキングスペースが不足。コワーキングスペース「チガラボ」は良い試みだがさらに期待する。

6、ボルツァーノ(イタリア
7、ボルドー(フランス
8、インスブルック(オーストリア
9、ポルト(ポルトガル
10、アーヘン(ドイツ
11、レイキャビク(アイスランド
12、サバンナ(アメリカ
13、ポツダム(ドイツ
14、バーゼル(スイス
15、チェンマイ(タイ
16、ビクトリア(カナダ
17、サン・セバスティアン(スペイン
18、アイントホーフェン(オランダ
19、バース(イギリス
20、オールボー(デンマーク

選外佳作
21、ヴィースバーデン(ドイツ
22、トリエステ(イタリア
23、ハーレム(オランダ
24、アナポリス(アメリカ
25、ザルツブルグ(オーストリア

(モノクルのサイトより抜粋和訳)
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茅ヶ崎駅から海への一本道「雄三通り」の眺め


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2021年04月03日

デジタルでの撮影「芦屋桜」歩き始め

芦屋桜の撮影を再開した。

2019年の桜は、どんな機材で撮影をするのか考えCANON EOS 5D Mark IIIでスクエア画角での撮影にトライしてみた。そして2020年の桜は、コロナ禍の感染拡大で1回目の緊急事態宣言が出される直前。とても帰省できる雰囲気ではなく断念しただけに、機材も新調した今年はなんとか行きたいと考えていた。

例年だと関東の桜より1週間遅れて関西の桜が満開を迎えるのだが、関東とほぼ同時に芦屋の桜が満開を迎えることがわかってきたので、自分への年度末の慰労を兼ねて有休取得し桜帰省。これも気候変動のあらわれではないかと感じるが、ありがたくない風物詩の黄砂も大量に流れてくる予報。3月29日の夜、新幹線に飛び乗り30日から3日間の撮影。

2005年に出版した「一年後の桜」に収めた写真は1991年から2005年に撮影。2015年に出版した「芦屋桜」は2008年から2010年。いずれの写真集も、今は亡き親父から譲り受けた1971年製造のハッセルブラッド500Cに標準レンズのプラナー80mmだけで撮影した。今回は昨秋に購入した2020年製造となるハッセルブラッド907X CVF II 50に標準レンズのXCD 4/45Pの1本で撮影する。

撮影スタイルはウエストレベルで上から覗き込むビューファインダースタイル。フィルムカメラと同じように、それぞれの風景を辿るように懐かしく頭に浮かべながら故郷の芦屋を歩く。違うのはすぐに撮影結果がモニターで見れるということ。そして何より中判デジタルの5000万画素という驚異の精細データとなる。

25年の記憶の時間軸がバラバラに蘇ってきてしまうが、震災後の当時は新築に幼木だった桜樹が隆々と枝を広げ満開を誇っていたり、印象深い邸宅の桜の大樹を見に行くと邸宅そのものがなくなっていたり、桜樹の寿命なのか勢いが無くなっていたり、不思議と変わらぬ佇まいの桜樹に再会したりと、人間の栄枯盛衰というか日本の税制、経済循環といった社会の変遷を風景からナマナマしく感じる撮影にもなった。

もしかしたら、このシリーズの意義が変化していくのではないかという想像が働く。芦屋の風景の中にある桜を撮ることを目的にしているのだが、30年もの歳月を同じ視点で撮り続けることにもなると、その景観の構成要素である邸宅が変化していくという当たり前のことに行き当たる。それに伴い桜も消えたり新たに植えられたり。写し取られた写真が何を語るのか。

東日本大震災で10年の節目という言葉に対して否定的な意見をたくさん聞いた。意見は多様であるべきなので、それを否定しないが、僕は節目を設けることでいろんな気づきや学びを得ている。阪神淡路大震災から10年後、20年後という節目で出版することができた写真集がそれを物語ってくれるだろう。

30年後の節目となる2025年にどんなメッセージを込めた写真集が出版できるだろうか。また一つ写真家として目標ができた。自分の作風が良いのか悪いのかは将来が決めてくれるとして、芦屋をテーマにした2冊の写真集によって構築されつつあるように思う。これで行くしかないと腹を決めている。その密度、確率を高めて質の向上を目指す。そして見えてくる2025年のメッセージを楽しみに積み重ねる。

2025年は大阪関西万博の年だ。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。多様性、包摂性ある社会の実現としてSDGs達成と合致するとある。SDGsは人間の安全保障でもあり、経済成長の手段としての人材と捉えるのではなく、一人ひとりの価値観に応じた幸せな暮らしのための手段として経済を考えることだと言える。

壮大な話になってしまったが、”金持ちの町”と揶揄される芦屋。とんでもないお金持ちが住むのも確かだが多様な経済状況の暮らしがある町だ。しかし全国で唯一の芦屋市だけに適用される「芦屋国際文化住宅年建設法」が、戦後すぐに市民参加型の住民投票で作られた。芦屋の本質はここにある。桜樹を撮影することでそんな本質に少しでも迫れるだろうか。2025年の自分に問いかける。芦屋市市政80周年記念冊子「Road to Ashiya 2040」でインタビューを受けこの辺りの話が掲載されている。

さて、今回の撮影の本気度は歩数でも見て取れる。3月29日の夜、芦屋に帰り、30日は6時台から撮影を開始し昼休憩を入れて日没まで31,794歩。31日は7時台から歩き始め昼休憩を入れてやはり日没まで32,714歩。1日は撮りこぼしたものを探して7時台から歩き始め昼まで9,623歩。3日間で74,131歩。約60km歩いたことになる。天候にも恵まれ満開のピークとなる絶妙のタイミングだった。

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定番とも言えるし時代の変化を感じるとも言える開森橋からの芦屋川

これだけ迷いなく歩き続けられたのは、何より新たな相棒であるハッセルブラッド 907X CFV II 50Cのおかげだ。撮れば撮るほどに創作意欲を掻き立ててくれた。早くも良い相棒と言える。ところが、この相棒をとんでもないアクシデントが襲った。Facebook用にでもとスマホで風景を撮って一歩二歩と歩いたら突然ガシャーンと足元を黒いパーツが転がった。

よく見るとCFV II 50C、つまりカメラ本体の後ろにつけるデジタルバックの部分。それもデジタルセンサーが偶然にも上をむいて転がった。何が起こったのか理解できないまま、これは僕のだ!と慌てて拾って反射的にデジタルセンサーを服で柔らかく拭いた。ホコリならまだしも砂利がついていたら傷が付いてゲームオーバー。背中側を見るとディスプレイは割れてなくて周辺がガキガキに傷が付いた。首から下げているのはレンズとボディの907Xだけ。ロックボタンがなんらかの拍子に外れてしまったようだ。

このロックボタンはフィルムカメラの500Cと同じ構造で、これまでこんなトラブルは一度もなかったので驚いた。恐る恐るスイッチを入れたら違和感なく動作した。撮影してみたら写る。しばし様子を見ながら撮影してみたが、何事もない。

一生ものだと奮発して購入したのでなかなか乱暴に扱えずに雨や海の潮が怖いと思っていたのだか、とんでもない洗礼となった。これで腹を据えてどんな撮影条件にも持ち出せるように思う。これを不幸中の幸いというのだろうとつくづく思う。もし何かあればハッセルブラッド・ジャパンに持ち込んでこの状況を説明しよう。

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今のところ健在な相棒

最後に、気になったのは公園などでの花見。子供連れでビニールシートを敷いてワイワイと賑やか。芦屋川沿いもロックガーデンなどへのハイキングに向かう人の中にはマスクなしもチラホラいる。こちらは日焼けによる格好の悪いマスクの跡を気にしながらの撮影でおいおいという感じだったが、毎晩のニュースを見ると段々と大阪と兵庫は感染拡大で初の「まん延防止等重点措置」実施区域に芦屋市も指定される始末。ギリギリのタイミングだった。

さて、故郷の桜を撮る。これは写真家としての成長の記録になるのかもしれないと思い始めている。

posted by 川廷昌弘 at 19:26| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月04日

写真家・鷲尾倫夫さんと語り合った

自分の写真展で初めて鷲尾倫夫さんと語り合えた。偶然、個展の初日に鷲尾さんからお電話をいただいた。「じゃ見にくよ。」と言われたが、たまたま在廊していた今日、ふらっと入って来られた。ご縁、波長とはそういうものなのかも知れない。

更に、たまたま展示の打ち合わせに来られていた石内都さんと目の前で鉢合わせになった。芳名帳に鷲尾さんと石内さんの名前が並んでいる。石内さんは展示を見て「頑張ってくださいね」と言ってお帰りになった。光栄な瞬間だった。

さて、僕の写真は鷲尾さんの目に止まるのか?極めて緊張する時間だったが「いいな」と言ってもらえた。「孤独だろ?」と言われて二人で大笑いした。そして噛みしめるように、いつもの如く、ご自身に言い聞かせるように出た一言が心に響き渡った。

「写真は物語じゃない」

鷲尾さんですら写真を組んでいく時、撮るプロセスや時間に思い入れがある写真を選んでしまうという。それを「甘い写真」とおっしゃる。その瞬間が放つ力が写真であり、プロセスはどうでもいいんだと。「物語は他人が語るもので自分で語るものじゃない」。

この一言一言が自分の言葉のように染み込んでくるようになった。ここに写真を組んでいくときの「たしなみ」がある。写真集を編集してくださった大田通貴さんが展示を見て「大人になった」と言ってくれたのと同じ話だ。写真家として自分の成長を感じることができる。これだけで今後の写真家人生に大きく影響を受け続けることになるだろう。

2009年に知り合って以来、鷲尾さんの個展会場でお会いするたびに言葉をいただき写真家としての眼力を鍛えてもらって来たと思う。「受光体は自らを磨き発光体を探し出会う」(2009年)。「文章は一枚の写真」(2013年)。「相手が語るまで待つ」(2015年)。その時その時の自分の実力に応じて入って来た言葉のように感じる。

鷲尾倫夫さん、1941年生まれで、なんと今年80歳。とてもそんな年齢には見えない気力。80-90年代は「FOCUS」(新潮社)の専属カメラマン。つまり時代のスナイパーだった人。多数の個展を開催されている。受賞歴に1991年『伊奈信男賞特別賞』、1996年『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』がある。現在のテーマは沖縄。次の展示は5月を予定されている。まだまだ現役のまま導いていただきたい。

鷲尾倫夫さんの「写・写・流転」(2009年)
写真は一枚。文章は一枚の写真(2013年)
鷲尾倫夫さんの写真展「巡歴の道オキナワII」を観た(2015年)

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(撮影:岡部優香里さん)

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2021年02月28日

写真家が個展を開催する意義

心が震えました。写真家としてのポジショニング、表現者としての進むべき道を、日本写真家協会の大先輩である伏見行介さんに示していただいたと受け止めています。

真剣に写真に向き合っているならば、写真で勝負をしたいと思っているならば、自分では見えていない成長や育んでいる個性というものを、個展を継続して開催することで発信できることを実感しました。

一つのテーマに取り組み試行錯誤をしている最中には、自分を信じて頷きながら走っていても、孤独で迷いや弱気や挫折しそうな気持ちにもなります。しかし、きっと自分の感性を信じて追い詰めれば追い詰めるほど、自分の成長につながり結果が見出せるのだと今回の個展ほど実感したことはありません。

年齢的な熟成もあるのかもしれませんし、何より今回は10年振りに開催できたことが大きいかもしれません。その間、人生のスランプや業務での飛躍など大きな山と谷を経験しながら、ずっと今回発表した作品を撮影し続けていました。

写真家として死にたい。そう思って生きています。今回はその思いに一歩近づけたと思いました。

伏見行介さんのブログFrom our Diary. MASH 「写真は楽しく!に、10年以上に渡って見守っていただいているような温もりを感じました。益々この道を精進します。ありがとうございます!

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2021年01月17日

117に想う

阪神淡路大震災から26年。毎年、この日に想うことを記してきた。今年はやはり、コロナ禍による緊急事態宣言中でのこの日を迎えたということに尽きる。

阪神淡路大震災を契機としたかの如く、それ以降、大規模で甚大な被害をもたらす天災に見舞われてきた。災害大国日本はまさに激動期なのではないだろうか。

間もなく10年を迎える2011年の東日本大震災、2015年の御嶽山の噴火、2016年の熊本地震、2018年には西日本豪雨と北海道胆振東部地震、2019の台風19号など。そして2020年のコロナウイルス感染症である。

コロナがトドメのように受け止めいているが、しかし緊急事態宣言を過ごしている中でさらに危惧されているのが、東南海地震や首都直下型地震だ。東南海は今後30年で70〜80%の確率で発生すると言われ、富士山だって噴火スタンバイ状態と言われている。

地震、噴火、津波、氾濫、そしてウイルス。いずれも生死は紙一重。

阪神淡路大震災でタンスの下敷きになったことは、僕にとってはショッキングな記憶となっているが、同じように何かの下敷きになって亡くなった方は、死亡者の7割以上とも言われている。毎年の報道を見るたびに「生かされた」という想いが強くなる一方、備えることに対して緩んでしまっているのも事実だ。

備えあれば憂いなし。今年の117ほど多様な災害に対して、この26年間の学びを振り返り、コロナ禍の中で起こるかもしれない次の天災に備ねばと想う次第です。

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今年の正月は帰省を控えたので芦屋の最新の風景写真がないため、2019年の4月に撮影した芦屋の桜です。

こちらは、震災10年後に出版した「一年後の桜」の作品群へのリンクです。
posted by 川廷昌弘 at 12:00| Comment(0) | エコロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする