2018年05月02日

東北の海岸林7 さまざまな風の音

2013年から断続的に続けているGWに車中泊で巡る東北の海岸林。北は下北半島から南は北茨城まで撮影ポイントもつながり、今回で7回目になる。

4月28日、初日。常磐線の泉で下車しレンタカーに乗り換え。

今回は、いわき、富岡、双葉、山元、亘理、東松島など、撮影済みのエリアだが密度を上げたいと考えている。しかし、どこが午前でどこが午後で夕暮れをどこで過ごすかなど的を絞れないままスタート。時間に追われない自由が良い。

北上しているうちに帰還困難地域に入って行ったので、昼間のイメージは福島第一原発に最も近い双葉海水浴場。昨年までは立ち枯れた松の墓所のような風景だったが、すっかり伐採されて一面に松が植樹されていた。少し内陸で原っぱの中に一本だけ立ち枯れた松。前回は気にならなかったが浮かび上がった。いずれなくなる風景ではないかと思う。

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帰還困難地域を国道6号線が抜けていく。人の気配が消えた風景が続く。

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目指していた富岡駅に到着。常磐線が復興しているとは知らず撮影のイメージが持てないまま過ごす。それにしても鉄路の復旧ほど心強く感じるものはない。人の交流、通学の生徒達。そして旅の空。明日に備えて南下し四ツ倉周辺で日没となり月夜の松陰を撮影して終了。1日晴天、気温も20度を超える。車中泊。

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4月29日、2日目。

今日は北茨城在住の画家である毛利元郎さんの自宅を訪ねる約束。昨日、品川で特急ひたちに乗ろうとした時、突然肩をたたく人があり振り返ると毛利さん。ちょうど同じホームに到着した常磐線に乗っていたようで驚くばかりの偶然。動き始めた車内で毛利さんからFacebookのリクエストが着信。しばしのやりとりで今日の訪問が決まった。兼ねてからこのGWの撮影で訪ねたいが連絡手段がないなあと思っていただけに驚いた。十年ほど前に出会った同い年の表現者。相性とはこういうことを言うのかもしれない。

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5時起床、6時頃から舞子浜、豊間、須賀と再び撮影。記憶にある場所、行き着いて思い出す場所。何度もプリントを眺めているので、次はどう撮りたいかというイメージが浮かぶのが早く、短時間で深堀りでき収穫は大きい。充分に撮影して9時半に毛利さん宅。スマホの地図アプリでドンピシャ到着。奥様と3人で尽きぬ会話。毛利さんの絵は奥様の額装で完成する。素敵なハーモニー。

毛利さんのこれまでの歩みや背景を知り、ますます画家としての毛利さんに興味を持った。ものづくりがとことん好きで、とめどなく深く強いエネルギーを持ちながら、極めてストレートでシンプルな表現。しかし自身の背景とその場所の流れゆく時間を塗り込んでいく画風。そんな毛利さんだからだと思うが、僕の写真に時間軸を見出して魅力を感じていると言ってくれる。非常に励まされつつ、お二人の手料理によるイタリア仕込みのランチをいただき、アトリエでお二人の写真を撮る。

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毛利さんの自宅は、裏山がありお堂があり梅林があり、昔は寺子屋をやっていた建物があり、400年前にこの地にご先祖さまが住み始めたという。裏山から水が出る田畑を守るには最適の土地だったようだが、画家にとっては湿気が多く管理が大変な土地とのこと。独特のペースをお持ちだと思っていたが、この土地のペースなんだと理解。鉄道によって地域が繋がってしまって都心に人を集めてしまったが、地域が豊かだったことを実感する時間ともなった。この時代だからこそ、地域の豊かなもに喜びを感じたいと思う。

再会を約束して出発。毛利さんが描く地元の海の小品も好きなので、まっすぐに海に向かい撮影。なるほどこの光と色。すぐに気がついたがここは間違いなく前回訪れた海だった。

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その後、浪江まで常磐道を走り、松川浦までできるだけ海に近いルートを走る。前回走れた小道は閉鎖され、新しい道ができていたりする。立ち枯れた松もほとんどが消えていた。僕も見ることはできなかったが井田川地区に夫婦松の写真パネルが立ててあった。海岸林の松はやはり地域の人に愛されている。

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以前はなかった巨大な風力発電の風車が海沿いに並び、海の照り返しかと思ったら一面ソーラーパネルの海となっていた沿岸平野部。地域経済につながっていることを願う。この地域にとって今は前進しかないのだ。1日晴天、気温は25度前後。車中泊

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4月30日、3日目。

5時起床、5時半ぐらいから移動。はるか海上を車が走るのを見つけて思わず向かう。早朝で車は少なく、太平洋と松川浦に挟まれた道路の見晴らしは抜群。この大洲松川ラインが今月21日に開通したばかりと後で知った。ここは当然ながら未撮影地のため、砂浜に降りたり、灯台の高台に上がったり。朝日に照らされる被写体の背景に抜ける青空。ミサゴに見下ろされながら立ち枯れた松を撮影。気がづいたらその木が住処だった。粘りに粘って気が付いたら3時間ほど滞在。

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整備された相馬港にある伝承鎮魂祈念館。前回に訪ねた時は津波の爪痕のままだったが、その時にあった印象深い松も伐採されていた。できるだけ海沿いの道を選ぶがまだ工事が多く全通していない。福島県内では砂浜と道路が接してる素敵なロケーションがあったが、宮城県に入ったら大きな防潮堤がしっかり出来上がっている。両県の工事の歩調が合っていないようで県境の道がつながっていない。

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福島県の海と一体となった復興のあり方に非常に好感が持てた。宮城県はかさ上げ市道の玉浦希望ラインや岩沼海岸道路など開通し快適なコースが出来つつある。さすがにナビのアプリがついていっていない。午後から薄曇りで夕方は曇り。気温は25度近く。車中泊。

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5月1日、4日目。

4時半起床。避難の丘から日が昇る。各所にこの丘ができている。普段は眺望が楽しめ周辺の地形が見て取れる。今日は5時には動き出す。思い切って東松島に向けて常磐道を走った。

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「青い鯉のぼり」をどうしても撮影したかった。男性が幼い弟が好きだった青いこいのぼりで鎮魂だけでなく多くの人を励ますメッセージを発信していると記憶している。僕にも仕事で世界を駆け回っている自慢の弟がいるので、兄弟愛に心を打たれる。

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東松島、野蒜海岸、この辺りも撮影しているが、今日も深堀に十分な手応え。宮戸島は初めて足を伸ばした。砂浜と小さな港がある静かな場所。果てしなく広い海岸に大きな波が寄せるかと思えば、こんな静かで小さな入り江がある宮城県。魅力を感じる。

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野蒜の漁港跡周辺の植林地を撮影していた時。しゃがみ込んで集中してシャッターを切った後、スッと立ち上がるとひどい立ちくらみ。いつものことだと思って目を閉じたが、なんだか立ってられない不安定さを感じたと同時に普通に立っているのにふわっと両足を同時に滑らせるように後頭部を地面にぶつけた。思い切り後ろに倒れたのだと気づいた。立ちながら一瞬気を失ったのだ。ぶつけた頭は思ったほど痛みはなく肩が痺れるような感覚はあったが回復した。普段は誰もいない場所。このまま気を失うか脳シントウでも起こしたらどうなっただろう。50代中盤。撮影をしながらコロッと、というのは本人は幸せなことかもしれないが周りには迷惑千万だろう。僕が何者で何を目的にここにいたのかがわかるようなネームタグをつけなばならないのではと考えた。

三陸道に乗り、一気に岩沼まで南下。何度も通って少し見慣れた風景になってきたが、亘理で見過ごしていた存在感のある松を見つける。工事によって風景に変化があり、消えてしまった松もあるが、残って存在感が増す松もある。

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中浜小学校の隣に1000枚を超える「黄色のハンカチ」が風になびく。90名の生徒や職員、地元の人が避難して助かった校舎。印象深い風景。松のある風景ではないが「青い鯉のぼり」も「黄色いハンカチ」も松韻と同じように優しい風の音が聴こえてくる風景だと感じて撮った。

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再び6号から常磐道で富岡町まで南下。今日は、どのように撮りたいのか少しイメージができている。必ずしも海岸線ではないが内陸でも松韻の聴こえる僕にとって懐かしい被写体。学校、踏切。松を絡めて風景を追い込む。風が気持ちいい。ここで撮影を終了。常磐道をいわき湯本まで南下し泉駅に予定通り18時半に到着。1日晴天、気温は25度を超える。

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4日間でハッセルブラッドにブローニーフィルム12枚撮りを15本で180カット。ハッセルと同じアングルで確認用にCANONコンデジでモノクロを180枚。CANON一眼レフで856枚は少し工夫して。スマホでちょこちょこ。

Tシャツとトレーナーがあれば夜も過ごせた。ダウンやウィンドブレーカーは着用せず。

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愛用のフィルムが製造販売中止

今年10月にフジフイルムがモノクロフィルムの販売を終了してしまう。フィルムを丁寧に装填し1枚1枚精神を研ぎしまして撮影するハッセルブラッド。僕の写真の流儀。

親父からの生前相続した1970年製造の相棒であるハッセル。そして自宅の暗室で六つ切8x10インチのRC印画紙にテストを焼いてファイルで持ち歩き、展示用に大四つ切11x14インチのバライタ印画紙に焼く作業をこれからもなんとか続けたい。

芦屋の「一年後の桜」「芦屋桜」と湘南の「松韻」。僕の原風景である「桜」と「松」のある風景。大切なテーマだから、モノクロフィルムをハッセルブラッドに装填して撮り続けている。これをどのように継続するのか。自分の生業が問われている。

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僕の写真の流儀

気になる風景の前に立つ。まずハッセルブラッドの目で探す。スクエアのファインダー越しに風景を追い込む。突き詰める。見えてくる。段々と。そして納得に近い情景となってくる。この繰り返し。絵作りというより風景を攻めて追い込み突き詰める感覚。ようやく1枚のシャッターを切る。ハッセル独特のバシャッという音と手応え。大きく深呼吸。心地よい疲労感。デジタルにはないフィルムらしい緊張感が好きだ。松韻が聞こえる風景を撮る。松を撮るのではない。何度も言い聞かせても物を見てしまう。物語を見るのだ。そう思いながら風景を追い込んでいく。そして念じるようにシャッターを切る。
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2018年04月28日

ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く

振り返ってみれば、盟友の水野雅弘さんが熊野に移住し、その地に生きた南方熊楠に日本のエコロジーの原点を見たという話を聞き、呼ばれるままに2016年2月に久しぶりに南紀に足を運んだのが始まりでした。

南紀は、学生の頃にバイクで野宿旅をしたり、関西支社勤務の頃は芦屋の実家から車でよく休暇で訪れていたのでした。しかし今回初めて熊楠というフィルターを通して見ると、これまでこの地域の本質を見ずに過ごしていたことに気づきました。

熊楠の視点でこの地を撮りたいという写真家としての思いが急激に高まり、2016年9月に水野さんの紹介で熊楠を研究するみ熊野ねっとの大竹哲夫さんからレクチャーを受け、南方熊楠顕彰館を訪ねたことから始まった熊楠詣で。

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そして、2016年10月、11月、12月、2017年2月、4月、5月、2018年1月と不定期ではありますが、なんとか時間を作っては足を運び、主に大竹哲夫さんのガイドという贅沢な熊楠ゆかりの地を巡る撮影を続けています。

これからも撮影は続けますが、すでに47箇所を撮影することができており、これまでの蓄積を一つの形として発表することを水野さんと考えなんとか形になりました。それも志で一緒に立ち上げた「一般社団法人CEPAジャパン」の事業に写真家としてです。コミュケーション会社のプロボノではなく、写真家という表現者として。これが極めて僕には重要なことなのです。

この年齢になって、ようやく自分がどのように生きたいのか素直に言えるようになってきました。「写真家として死にたい」これに尽きます。今回のこの企画はそんな僕に生きる力を与えてくれています。

さて、今回のまず初動は部数僅少だったのですが好評だった「ガイドパンフレット」。さらに、現在、日比谷図書文化館をキックオフに全国の図書館を巡回する企画として調整が進んでいます。

以下に今回の主旨を記します。

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南方熊楠は、抜群の記憶力と異常なまでの好奇心により明治時代にひらりと国境を越え、あらゆる知識と情報を森羅万象からひたすら英語と日本語に抜き書きし情報を提供しようとした人であり、生物多様性という概念の広さと深さを教えてくれるジャパニーズ・エコロジーの先駆者でもあります。

熊楠は、日本で最初にエコロジーという言葉を使って神社合祀に反対する自然保護運動を行いました。さらに、「風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ。追々交通が便利になったら必ずこの風景と空気がいちばんの金儲けの種になる」と言い、持続可能な観光による地域の経済振興も考えていました。文字通り100年早かった智の人でした。

現在、国内でも多くの社会課題と向き合う中で、国連が世界の国や地域と共有できる目標を掲げたSDGs時代と言われています。熊楠が知的財産になり得るかどうかは、インターネットによりあらゆる情報にアクセスできる我々に託されているのだとも言われています。

一般社団法人CEPAジャパンは、2010年に名古屋で開催された「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)」で公式発言を実現し決議文の修正を行う成果を挙げました。この時に強調したのが自然と共生してきた日本人の暮らしです。それ以来、日本各地の暮らしの知恵に学び新たな価値も創造する、熊楠のような未来志向のジャパニーズ・エコロジーを目指して活動を続けています。

今回、CEPAジャパンでは南方熊楠ゆかりの地を国の名勝地として定められた「南方曼荼羅の風景地」13か所から、車で巡りやすい場所を選定したガイドパンフレットを作成しました。制作に際し、3年かけて47箇所の撮影を行いました。そんな写真に囲まれながら、熊楠に思いを馳せる時間を多くの方と過ごせる空間と企画を立案しました。

一般社団法人CEPAジャパン 
2018年春
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この思いに千代田区立日比谷図書文化館のみなさんが応えてくだって、下記のキックオフイベントが開催される運びとなりました。

「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」
写真展・ポスター展
国際生物多様性の日の5月22日から6月17日まで。
撮影:川廷昌弘(公益社団法人日本写真家協会・一般社団法人CEPAジャパン)
協力:大竹哲夫(南方熊楠顕彰会事業部委員・み熊野ねっと)


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日比谷カレッジ
「ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く」

6月14日(木)の夜7時から9時まで。
第一部:新しい南方熊楠の姿『南方二書』を改めて読む

講師:田村義也(南方熊楠顕彰会学術部長)
第二部:ジャパニーズ・エコロジー 南方熊楠ゆかりの地を歩く

講師:
田村義也(南方熊楠顕彰会学術部長)
   
大竹哲夫(南方熊楠顕彰会事業部委員・み熊野ねっと)
   
水野雅弘(株式会社TREE代表取締役・一般社団法人CEPAジャパン)
   
川廷昌弘(公益社団法人日本写真家協会・一般社団法人CEPAジャパン)

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主  催:千代田区立日比谷図書文化館

企画協力:一般社団法人CEPAジャパン
特別協力:南方熊楠顕彰館(田辺市)


詳細は日比谷図書文化館のサイトへ


ぜひお越しくださいね!

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2018年02月12日

日本で写真を撮る意味を考える

昭和31年に毎日新聞社から出版された写真集「雪国 濱谷浩」を古書で手に入れた。

「もはや戦後ではない」「太陽の季節」が流行語で、大卒銀行員の初任給が10,000円の時代。高度経済成長に向かいつつある時にこの写真集は出版された。価格は1,500円。今の対価で30,000円ぐらいだろうか。

撮影を始めたのは昭和15年。戦前戦後にすでに失われゆく日本の暮らしを、日本海側の冬の季節に求めて20代だった濱谷浩は夢中になって通い移住までしていた。写真作家で食っていけるわけでもないのにひたすらに撮っている。撮影データも添付されている。キヤノン、ライカ、ローライ。フィルムだけでなくフィルターも記されている。レンズはもちろん単焦点だが28mmから90mmが多用され最大でも200mm。

ポートレイトから風景。地域に腰を据えて自分の作品としてまとめる作業。僕がいつのまにか目指すようになっていたスタイルだ。108枚で構成されダイナミックなエディトリアルで作り上げられている。被写体に向かっていくエネルギーをひしひしと感じる作品群。

あとがきに、「写真の記録性を強く主張して、仕事を進めました。特に、人間の形成に基底的な作用を持つ、民俗というものは、何らかの形で今のうちに記録にとどめておく必要を痛感しました。」「ここの人たちにはアメリカの近代生活を夢見ることがありません。一日一日を正確に真実に生きることを考えています。その裏付けに、彼らの民俗があるのです。私のカメラは以上のような考えをもって桑取谷へ入ったのです。」とある。

いつの時代も、政策によって日本の民俗は少しずつ少しずつ失われてきた。何度も何度も読み返し、自分の写真との向き合いを考える。また一つバイブルを手に入れた。僕は、自分の感性を信じてコツコツと撮影を続けていくというささやかな決意をこの写真集に誓う。

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2018年01月17日

今年の117に思う

阪神淡路大震災から23年。

タンスの重みの記憶はすでになく、この日を心に留めるよう意識しなければ普通に流れていってしまう。記憶の風化は当たり前のように僕にも訪れてきた。今年はそんな117だった。

震災から2年後、東京転勤を機に湘南に土地を求め家を建てた。30代だった。その時の精一杯のアイデアで建てた家は施工はメーカーハウスで、今から振り返ると何もかもが偽物の家だった。欧米風のデザイン、無垢材のようなフローリング。未熟だった。

そして震災から22年後の去年、湘南にもう一度土地を求め家を建てた。50代だ。今度は全てが本物の家だ。仕事や活動を通じて繋がった人や知恵を活かした。新築戸建では日本で初の国際森林認証FSCのプロジェクト認証を受けた。全てが産地証明のある無垢材。内装はホタテ漆喰を50名を超える仲間が手伝ってくれて塗った。

家は3軒建てて一人前という。後1軒。建てたいと思う。思えばできないことはないのではないか。写真家として生きていきたいという思いだって、自分の才能を信じ続けることが全てではないかと思う。

震災で生かされたと感じた命。たった一度きりの人生。夢を夢で終わらせるのは努力を怠ったということだと言い聞かせて、与えられた命、生かされた命を使い切りたいと思う。

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2018年正月の芦屋霊園からの眺め

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2017年07月09日

今年も昆虫王国へ

慌ただしい日々。無理をせず休養とも思ったが、少しの時間でもいいので入って行きたかったので、圏央道から中央高速を急ぎ日没の頃に長坂インターへ。

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聴こえてくるのはヒグラシとカエルの声と、水路を流れる冷たい水の音。かすかに焚き火の匂い

今日は月夜なので昆虫の飛翔は少ないとわかっていたが、恒例のポイントで高原の涼しい風に吹かれているだけでも気持ち良い。走り抜ける車の数も減り、人間の営みが暮れていくと昆虫王国の扉が開く。例年はキツネやコウモリなどがライバルとなるが、今年はライバルもなく幸先よくノコギリクワガタのオス。そしてカブトムシの大きなメスが次々と飛来する。

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堂々と歩く姿が魅力

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ワクワクするロケーション

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ただ座って高原の風に吹かれているだけで昆虫王国の扉を入っていける

昨年のカブトムシが生んだ卵は大きなオスが圧倒的に多く、故郷に帰してあげることも大きな目的。その中で立派な角で元気の良いのを2匹だけ手元に残して20匹以上のオスとメスを、人間の僕も匂いを嗅いだだけでフラフラと酔っ払ってしまいそうな樹液が出ている大きなクヌギの木に戻して来た。

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大きく太い羽音が僕を旋回するように聞こえる

こんな感じでこの地に15年ぐらい足を運んでいるが、開発のため地形が変化している。家が増えたり道が増えたり。この写真は2006年の7月に八ヶ岳の麓のある交差点でカブトムシがアラレのように降ってきた時の写真。こんな経験はこの時だけだが、いつかまたこんな経験をしたく昆虫王国が安泰であってほしいと願う。

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2006年7月の夜の交差点

今年のカブトムシがたくさんの卵を生んでくれて、来年もこうして故郷に帰してやれたらと思いつつ、明け方の中央高速を湘南に向けて走り始めた。

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2017年06月26日

学びの島、豊島へ

瀬戸内海に浮かぶ豊島に1泊2日だけ滞在した。

違法産廃に苦しめられた信じられないような現実の40年。自治行政の長から「豊島の海は青く、 空気は綺麗だが、住民の心は灰色だ」と誤解され突き放される経験。親から見限られたような失望感の中で住民の暮らしを守るための運動。

そこにあるべき正義を勝ち取るための戦い。極めて純粋に当たり前の暮らしを取り戻すための意思表明。それを見守っていた人の中で立ち上がった兵庫県警の国松氏。そして中坊弁護士。さらに全国各地の無名の人々による支援によって本当の勝利を勝ち得た戦い。住民の主役たちも高齢化し、事実を語り継ぐための伝承を1日も早くする必要があることを肌で感じた。産廃跡地も後処理の問題から6月末日で一般の立入りが禁止される。

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沖から望む産廃処理場

一方で、2010年から始まった3年に一度開催される「瀬戸内国際芸術祭」。その第一回開催時に開館した「豊島美術館」。住民1,000人に満たない島に3期に分け105日間に及ぶ会期中17万人が訪れるイベント。これをきっかけに移住する若者が増え、通年を通して多くの旅行客が訪れるようになっている。

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豊島美術館

豊島の漁港で漁師と話をしていたら、明らかに日本語ではない家族の会話が近づいている不思議。多くの住民が優しく挨拶をしてくれて会話が進む。これが豊島の日常のようだ。こちらも安心して住民の方に挨拶をして世間話をすることができる。自分も解放してもらえるような空気が流れていた。

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漁師の角石さんは踊りの名手

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民泊でお世話になった角石さんの奥さん

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家浦地区の路地

戦争中はこの島に住民の3倍の人が疎開したという。弘法大師の伝説が残る湧き水があり、農業があり米が収穫でき、自給自足で暮らせる環境。移住した若い人たちは、高齢となった住民の農業、漁業、食事のレシピなど、生きるために教えて欲しい知恵と技術がたくさんあると口を揃え焦りを隠さない。

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弘法大師の伝説が残る唐櫃の清水

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住民の心を後世に伝えたいと願う山口さん

今回、お会いした島民のキーパーソンの印象的なフレーズを記す。

植松武義さん(元自治会長)島全体が美術館 
石井亨さん(元県会議員)これまでの振り返りをしなければならない
安岐正三さん(住民会議事務局長)やりきることで第二の豊島を作らない
砂川三男さん(元住民会議議長)全国の人の支えによってできたこと

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豪快に人生を語る植松武義さん

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冷静だけど熱い語り口が印象的な石井亨さん

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産廃跡地で圧倒的な情報量を語る安岐正三さん

砂川さんは、今、高松市内の病院に入院されているだが、どうしてもお話を聞きたくて押しかけさせていただいた。大変にお元気で丁寧にお話してくださった。開口一番は「さあ何でも質問してください」だった。

腰を骨折されて3か月入院されていたが、間も無く退院できるそうだ。90歳で3か月入院して退院できる骨の持ち主。どれだけ基礎がしっかりしているのかと思う。意識も記憶もしっかりされていて豊島で育まれた体がいかに強靭かを思い知らされる。こんなところからも豊島の生活環境の魅力を感じる。

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静かな闘志を感じた砂川三男さん

その砂川さんが記された2005年の文章が、「豊かさを問う2ー調停成立から5周年をむかえて 豊島事件の記録」の巻頭ページにある。中坊公平氏の言葉を引用したところから切り取ってみる。

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「行政依存の安易な考えで資料館を造ることは人間廃棄物として世にさらけ出すだけだ。学びの島として再生することは至難の技だ。人の心をゆり動かせるだけの情熱がなければできず、出来たとして誰も来ない島になるだろう。」中坊公平氏

必死の思いで活動してきた支援してくださった人々や130余名の物故者のことを過去のこととして捉え、現実から忘れようとした心が中坊先生を失望させた。今、豊島住民はこれからのことを決して忘れてはならないことを学んだ。こころの資料館を身の丈に合った心のこもったものとして充実に向けて、島の再生と併せてすすめなければ、事件や運動が過去のものとなり忘れ去られる。

砂川三男「忘れてはならないこと」より

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「生態系・芸術・社会・生業による生きる知恵を授けてくれる学びの島、豊島」を、住民と豊島に魅力を感じて移住した人たちや、足を運ぶ豊島ファンの人たちが、創りだせたら素敵だと勝手に思いを馳せている。ここでもコミュニケーション・デザインの力が求められている。

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棚田の脇の抜ける道からの眺め

豊島に心を寄せる方にも考えてもらいたくて記します。この2日間をアレンジしてくれた佐々木良さんに感謝します。得たヒントをアイデアにしたいと思います。


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2017年06月18日

写真の天使

めぐみの雨の日曜日。久しぶりに暗室ワーク。

先週の日曜日、僕の誕生日に10年ぶりぐらいに娘たちをハッセルブラッドでも撮影したので早速プリントしてみた。

現像液に浸して浮かび上がってくる2人は、毎日のように撮影していたあの頃がそのまま続いているかのように写っているのだが、それぞれ大学に通い就活をして、長女は社会人1年目、次女は内定、とぐっと大人になっているから歳月は確かに刻んでいる。

撮影の時、露出計をかざしてファインダーを覗き込むと、すっと2人ポーズをとってくれてサッとシャッターが切れていたことを、浮かび上がってきた2人を見て思い出した。

撮る方も撮られる方も呼吸を合わせることが自然にできるようになっていたようで、10年の時間をスッと越えることができた。

思い返せば、生まれた時から離れて暮らすまで、赤ちゃんの頃は毎日のようにカメラを向けていたし、小学校を卒業した後も気がついたらカメラを向けていたように思う。会話をするように撮影をしていたんだろうなと思い返す。

娘たちに限らず、海や山などいろんな撮影で、ファインダーに集中して撮影して仕上がりを見ると、こんな絶妙なタイミングのシャッターを切っていたっけ?と思い返すような抜群の写真があったり、自分の想像を超えたシャッターチャンスに巡り合って興奮しながら撮影することがある。

それを、「写真の神様」が撮らせてくれたと感謝しているのだが、娘たちは僕にイマジネーションやチャンスを与えてくれる「写真の天使」だったのだと今になって気付かされる。

娘たちはこの世の誰よりもたくさん写真を撮ったモデル。

僕が写真の腕を上げるために、娘たちはなくてはならい存在だったのだ。改めて感謝が深まる。なかなか揃っては会えないが、これからも何とか機会を作って撮れたら嬉しいなと思う。

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2017年05月19日

ただものではない「海北友松」という絵師の人生を観た

Facebookのタイムラインで目に飛び込んだ京都国立博物館の開館120周年記念特別展覧会。最後の土日は混雑すると思い、たまたま今日の予定を見たら新横浜で15時に終わるので、思い立ったが吉日&勝手にプレミアムフライデーにして、自己表現を追求する姿を学ぶために新幹線に飛び乗った。

海北友松。恥かしながら知らなかった。観たこともなかった。武家に生まれ桃山の世に絵師として83歳まで生きた。狩野派から独立して60歳を越えてからの作品だけが展示されている。

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晴れ舞台を得た60代、体力の充実と気力に満ちた70代、豊かな詩情を表現した80代。現代ならまだしも信長が人生50年を謳った戦国時代にこの寿命。今を生きる者にとって最高の手本であり心の師匠である。

狩野派とは違う独特で自由な筆使いによる松。画面への取り入れ方とその描き方に激しく刺激を受ける。重要文化財の「雲龍図」も龍が松を描いているように見える。

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それにしても、これだけの作品をいつ頃から作品として扱い保存を目的としたのだろう。その判断をした人は誰だったのだろう。とても神経が行き渡った展示会場を見てつくづくと思う。これだけの近代技術に守られている作品は、これまでどのようにして守られ展覧されてきたのだろう。

京都国立博物館の平成知新館は、とてもゆとりある設計で大きな作品が堪能でき、1回目は丁寧に全てを見て回り、再入場の2回目は、気になった作品をじっくり見直したり階段から吹き抜けの展示場を見下ろしたりして、友松の世界を網膜に焼付けた。京都の金曜20時までの観覧は、予想通り東京と違い全く混雑することなくしげしげと自分のペースで全ての作品を眺めた。

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今のような多くの肩書きなど欲しくなく、ただ一つの写真家として生きたい僕の背中を押してくれる。まだまだ焦ることはなく、来るべき日々のために毎日を積み重ね強い精神と体力を得ることだと、会場全体から見下ろしてくれているように感じる。

僕の表現したい世界である「松韻」。これをとにかくコツコツと続ける。今日の刺激を生涯忘れることなく自分ならではの世界を構築する。誰に振り返られなくとも自分の表現を信じて続ける。

勇気をもらったと言うより、何を焦っているのかと叱責された。己を知り己を磨けと言われた。まだお前なんか見えていないから、何度でも立ち止まり考え直しやり直しても大丈夫だぞと、実は優しく言ってもらったように思う。

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建物を出ると、1年で最も日が長い季節に近づき気温も高く爽やかな夕暮れ。カフェの外の席で抹茶オーレを注文して日が暮れるまで座っていた。カタログで眺めるのではなく、展示空間で体で観なければきっと一生後悔すると思った。京都国立博物館に滞在したのは17時半から20時。このためだけに京都に行った。自分への投資。とても幸せな時間だった。

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2017年05月06日

月明かりと夜光虫

湘南の夜の幻想的な風物詩。

5日の夕方、海を散歩していたら赤潮が発生していたので、これは夜間撮影だと決めて防寒着にカメラと三脚を持って夜の波打ち際で粘ってみた。

アップした写真は、意図的に月明かりをセンターにしたもので背景に夜景がきてしまっているが、この他にも人工的な光を排除して月明かりと夜光虫だけのシンプルなアングルにもトライして、光が弱まるまで粘ったら深夜になっていた。

強い南風でカメラも自分も潮まみれになったけど、久しぶりに夜光虫を楽しむことができた。波が寄せるたびに刺激を受けて体を発光させるので、まるで丘から多数のブルーライトを照らしているような感じ。

2003年9月に生まれて初めて夜光虫を見たときは、たまたま夜の海を撮影してみようとカメラを持って行ったら、波がブルーに発光して打ち寄せるので、どこで誰が光を当てているのだろうと、ライトアップイベントなのかと本気で思ったほど見事だった。その印象のままに、今回も波が打ち寄せるたびに思わず声をあげてしまうほど。

翌日になってニュースで鎌倉が特に異常発生で相模湾全域に広がっていたと知った。今のところ漁業被害もないようで何より。

相模湾では、ほぼ毎年のように4月ごろから9月ごろまで、海水温の上昇に伴って赤潮が発生する。特に潮目に沿って帯状に広がるヤコウチュウによる赤潮が発生する特徴があると、神奈川県の資料には書かれている。赤潮はプランクトンの異常発生によるものと言われているが、プランクトンが必ずしもヤコウチュウとは限らないようなのでラッキーだった。

好天続きのGWで、さらに素敵な被写体をプレゼントしてもらえて幸せです。

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月明かりと夜光虫


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2017年05月04日

東北の海岸林6 牡鹿半島の静かな入り江

5月2日、今日から南三陸を出て、車中泊の撮影旅に出る。

まず、雄勝に向けて走り出し、途中、石巻で味わい深い佇まいを撮影。雄勝では、雄勝硯協同組合の高橋さんにいろいろ教えてもらった。

硯としては仏教の布教と共に必要となった硯石をこの地で見出し産地となって約600年。明治に入って洋風建築に必要なスレートに、この石が合うということになり普及。東京駅に使用されたのは有名。しかし採石量はそんなに多くなく、津波に呑まれた素材を拾い集めて磨いて販売している。とても思いを感じる商品。自宅用に購入する。

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雄勝硯協同組合の高橋さん達

さて、松韻シリーズである。

今回は牡鹿半島の海水浴場を訪ねることにし、まず最初に向かったのは雄勝の荒波海水浴場。ここは砂浜のど真ん中に雄勝特有の大きな岩が鎮座している。いつまでもこの風景が守られて欲しいと願う。

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荒浜

女川方面に向かっていたが日没のため、指ガ浜の仮設住宅跡地で車中泊。21時にはダウン。

5月3日、4時起床。

あまりにも寒いのでダウン着用。女川駅に向かい駆け足観光した後、地名が素敵な夏浜海水浴場に到着。小さい砂浜だがとてもきれいで静かな場所。歩いてビックリ鳴き砂だった。

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夏浜の出会い

ここで、石巻から釣りエサにするいさだを採りに来た老人と話し込む。この辺りでの釣り道具屋で3,000円ぐらいで当たり前に売っている「いさだ網」を器用に扱って短時間でバケツ2杯分。それを砂にまぶして持ち帰るという。撮影もさせてもらったが、あえて名前も連絡先も聞かずに別れた。旅の良い思い出にしたかった。

続いて女川原発の隣にある小屋取海水浴場で撮影。原発の有刺鉄線の前に津波に洗われ立ち枯れた一本の松がある。これを撮影していたら、予想通り警備員がやってきた。聞かれることはわかっていたので、東北の海岸線で津波の記憶を刻んだ松を撮っていると伝えた。

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女川原発の敷地と砂浜

次の撮影地に急ごうと思ったら、五部浦湾の野乃浜に立ち枯れた松が何本も佇んでいる。これは1時間コースだと思って粘る。手応えは感じる。少し調子が出てきたように思い次に急ぐ。

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野乃浜にて

十八成浜。海水浴場らしい典型的な松が数本残って元気に立っている。その海側には巨大防潮堤の建設が進む。その中で1本、とても立ち姿が美しい松があり、その印象のままに撮影。去りがたい場所。

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十八成浜の防潮堤工事

夕暮れとなり、御番所山の展望台に。初めて金華山を望んだ。草地の斜面にいい感じで佇む松を撮影。頭上では松韻がそよぐ。ここからの夕暮れが良くて日没まで撮影したので、ここで車中泊とする。月夜の外はダウンが必須の気温だが寝袋は暖かく快適。

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御番所山からの眺め

5月4日、3日目の朝、明るいので目が覚めたら6時半。寝坊である。地図アプリでチェックした海水浴場を訪ねる行程。昨日は、朝の老人とののんびりした時間を過ごしたことで心にゆとりができ、充実した松韻撮影ができたので朝からスイッチが入っている感じがする。

石巻市の谷川浜は、平地は何もなくなってしまった風景が広がるが法面が広い防潮堤が姿を現していた。大谷川浜は小さな集落のエリアで防潮堤はない。いずれも撮影対象がなく先を急ぐ。

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完成間近な防潮堤

前日に撮影した野乃浜。意外と広く反対の端には女川第六小学校と第四中学校の跡地があった。記念碑を見ると小学校は明治6年開校とある。閉校は2010年で136年の歴史を刻んでいた。地方も都会も豊かさは関係なかった証しではないかと感じる。浜では打ち上げられた松が海に向かって立ち上がっている。その後ろ姿に思いを込めた。

隣の大石原浜でも打ち上げられた松、崩れた崖から抜け落ちた松、立ち枯れた松。いずれもその印象をより強くできるよう撮影した。

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女川第六小学校前の浜

ちょうどお昼前に女川駅周辺に入ってしまって少しの距離だが渋滞にはまった。この連休で初めての渋滞。すぐに抜けて御前浜海水浴場に向かう。ここでは良い被写体がなくお昼ご飯を食べて沖を眺めていたら、少し先に気になる入り江が見えた。

正確な地名はわからず、地図アプリで最も接近するあたりに車を止め道を探すが道はなく、杉林や竹やぶを縫うように人が歩いた跡を辿って降りていくと、誰にも使われなくなった空間が広がり、5月の日差しに立ち枯れた木々や打ち上げられた木々が眩しい浜だった。

立ち枯れた木は広葉樹だったが多数打ち上げられたものには松が多く、この地でも聞こえたであろう松韻に思いを馳せ、じっくりと被写体と向き合いシャッターを切った。

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地名のない入り江

ここから一気にくりこま高原駅に向かおうとしたら、波板海水浴場とある。立ち寄らないわけにはいかない。松韻風景を感じる被写体はなかったが、小さな砂浜の全体を歩いてみた。丘には津波でさらわれハワイのオアフ島に流れ着いた第2勝丸が奇跡の生還と看板が立てられ置かれていた。

これで今回の車中泊での撮影は終了。

天候の加減で幸いなことに、日々ヤマザクラの花のつき方が変わっていった。もう散り際かなと思ったら咲き始めでみるみる満開を迎えていった。牡鹿半島の道では、カーブを曲がるたびに多様なヤマザクラが立ち現れ、ハンドルを切るのが楽しく気分が高揚する運転だった。

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カーブを曲がるたびに声をあげていた

今回は、地図アプリで海水浴場を探し航空写真で松韻写真が撮れそうか目星を付けて走ってみた。たとえ良い被写体がなくても、夏の賑わいを想像する楽しい空間に出会う旅ともなった。

日が沈めば車中泊の準備を始め、その日1日の撮影成果を整理する。そうするうちにうとうとして眠ってしまう。日の出前後に目が覚めてまた走り出す。天候にも恵まれた自分の表現を探し求める旅。

数カ所では防潮堤の建設が進む一方、海抜の低い道路から穏やかに海を望める場所もまだ残る。自分が撮影した写真には、これから意味が付いていくことになる。

考えられないぐらいのボリュームの仕事や活動や学生生活などで睡眠時間を削って生きているが、少しでもこんな時間が過ごせて幸せだ。

時間は自分で作るもの。もちろん理解者あっての実行。また旅に出よう。

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こんな風景に出会えるから旅はやめられない

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